富士山が美しい
山中城跡

月曜日に
今週予定がないね!温泉に行こうか?
と急に思い立ち、
インターネットで宿を検索。

相変わらず計画性のない思いつき行動です。
にひひあせる

温かい伊豆方面、
伊豆方面と言えば、熱海もいいな~。
梅園もあるし!

・・・と言うことで、熱海に決定です!

熱海で宿泊先を探すと、運よく有りました。
2日後の水曜日

ただし、熱海だと昼過ぎに出かけても行ける場所、
どうせなら何処かへ寄って行こう。

そして決めた場所は、
まだ行ったことのない山中城跡。

理由は、
ここからの富士山が素晴らしい、
・・・らしい。

行って見ると、富士山も素敵だったが、
予想以上に山中城跡が良かった。

今日は、その様子をご紹介。



ゆっくり出発したが、予想以上に早く到着。
山中城跡公園は駐車場も整備されていた。
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駐車場にあった案内図
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山中城跡散策する前に、城の歴史を少々。

貴重な中世の山城
山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた北条氏が築城しました。その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行ないました。しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。このときの城将松田康長、副将間宮康俊、豊臣方の一柳直末等武将の墓が三ノ丸にある宗閑寺境内にあります。400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものがあります。昭和9年(1934年)国の史跡として指定されています。<三島市観光協会HP>


豊臣秀吉の小田原攻めに対して整備・増築など行うが、
半日で落城した悲しい歴史を持つ城とはどんな城だろうか?

案内図を見ると、かなり広い。
まず、右上の西の丸方面へ行って見る。

駐車場から進む道
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少し行くと池が二つ。
田尻の池
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田尻の池(写真)は馬用の飲み水として使われたようです。
季節には睡蓮の花も綺麗なようだ。

池を右方面に行くと宗閑寺の案内を発見。
行って見ました。
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ここは山中城・落城の際に戦った、
北条軍、豊臣軍の差別なく武将たちが祭られている。
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敵も味方も無く祀るとは・・・、
この時代には考えられない事ですね。

戦いで命を失った人たちの冥福を祈りました。

池に戻り、
きっと富士山が望める?西の丸へ向かってみる。
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行く途中には、小山のような小さな曲輪が続く。
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これも敵からの攻めを防ぐ形なのだろう!
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橋を渡って行きます。
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橋を渡った所にあった土塁の案内
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山中城の建物についての案内
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西の丸見張台に到着。
富士山を探すと、目の前に見えた グー
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位置としては最高の場所だが、
残念ながら半分以上雲にかかって居ますね~ 

向こうに見える、西櫓へ行って見よう。
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西櫓へ来てみると、さらに富士山が良く見えた。
雲も大分流れてくれました!チョキ
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当時の武士たちは、
この景色をどんな気持ちで眺めていただろうか?

歴史ある城跡から見る富士山は、
ちょっとセンチメンタルになりますね。


さらに西木戸へ回ってみた。

西の丸や西櫓の周りはグル~と堀があるのだが、
案内図に見られるように変わった形だ。

説明書きによると「障子掘」と言うらしい。
なるほど、障子の桟にも見える。
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案内図を部分拡大


障子掘
堀底には、ほぼ9m間隔に8本の畝(うね)が、堀の方向に対して直角に作られている。畝はローム層を台形に堀残して作ったもので、高さは堀底から約2m、頂部の幅は約0.6mで丸みを帯びている。畝の傾斜度は50度から60度と非常に急峻である。平均した堀底の幅は2.4m、長さは中央で9.4m、堀底から西櫓までの高さは9mもある。現在は植栽されているが、400年前は滑りやすいローム層が露出し樹木は全くなかったので、もし人間が堀に落ちれば、脱出することは不可能だったと推定できる。


こちらが障子掘と富士山
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初めてみる堀の形です。
その他いろいろ工夫されて作られている城のようだ。
北条氏最後の山城、凄いですね!

でも、
半日で落城とは何が問題だったのだろう?
圧倒的な数の差には、なすすべも無かったと言う事か?

落城の原因は歴史学者に任せるとして、
我々は景色を楽しんだ。
ここからは駿河湾も一望できる。
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西木戸にあった石柱。西櫓を背に記念写真!
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ここから西ノ丸の富士山側の休憩所へ行ってみた。
その途中見えた富士山も綺麗。
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良く見える所にあった山の紹介
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富士山から愛鷹連山、さらに三島市街地、
その向こうに駿河湾が一望できる。

これだけ見晴らしが良いと、
敵の様子も良く分かっただろうな~


休憩所を通りすぎ、本丸の方へ行って見た。

北の丸堀
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長い年月の間に、随分埋まって浅くなっている様だが、
昔は今より2m以上深かったようだ。

ここの堀には橋が架けられていた。
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山中城の堀には土橋が多い様だが、
重要な曲輪には木製の橋も架けられていたようだ。

木製の橋は、
簡単に壊せるので敵兵の進攻を防ぐ事ができる。
ここは本丸あたり。当然木の橋だね!

橋を渡り少し下った所に、矢立の杉があった。
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推定樹齢は500年前後といわれ、目通り4.37mもあるようだ。
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出陣の時、
杉に矢を射立て、勝敗を占ったと言われる。

矢立の杉と言えば、
笹子峠にある矢立の杉も有名ですね。
杉良太郎さんの歌もあるし(笑)

良かったらご覧ください。⇒笹子峠の「矢立の杉」


矢立の杉を見ていたら、40代?の男性が一人やって来た。

お話しをしてビックリ。
なんと
旧東海道を日本橋から歩いているそうだ。
今日で4日目

今日は芦ノ湖から歩き始め、人に会ったのが私達が最初らしい。
観光地以外は本当に静かだ!と言っていた。
第一村人発見されましたね(笑)

13~14日かけて歩く予定との事らしい。
目的地は京都ではなく、手前の伊勢神宮。

因みに、東海道53次の総距離はどの位だろう?
調べてみると 492Km。
かなりあるな~

昔の人は、14~15日程度で歩いたようだ。
1日約35キロ。8時間近く歩き続けることになる。

昔の人は健脚ですね~
山登りやウォーキングなどと、健康管理などする必要無しですね。
パーにひひ

無事、完歩されることをお祈りして別れました。
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一通り見たので車へ戻る途中、また太~い大木を発見!
アカガシ、樹齢650年だそうだ!
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凄い迫力です。
矢立の杉やアカガシは当時の様子を見ていたのだろうね!


ここから駐車場へは田尻の池を抜けるのだろうが、
敢えて国道1号線へ抜けてみた。
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一度1号線へ出たが、すぐ石畳の旧東海道があった。
その旧道の途中にあった芝切地蔵。
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地蔵の謂れ
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芝切地蔵の前の旧東海道、
その道は一号線を超え、さらに三島の方へ続いていた

一号線を渡った旧東海道の道脇にあった案内。
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右に続く石畳の道が旧東海道。左が馬場曲輪へ続く道。
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左の階段を登って馬場曲輪へ行って見た。
さっき見て来た「西の丸」辺りとは違い、広い広場があった。
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ここは御馬場跡のようだ。
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出丸御馬場跡の説明
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ここからの景色がまた凄い!。
富士山が丸見えですチョキ
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富士山に掛かっていた雲もすっかり消えていた。

駿河湾も見える!
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今日は沢山の見事な富士山と、
素晴らしい城跡と巡り会う事が出来た。

ここは春からツツジ・アジサイ・スイレン等も楽しめそうだ。

また来たい!グー
そう思える場所が一つ増えました。
パー


車に戻り、帰り支度をしていたら、
先ほど分かれた旧東海道を歩いている人とまた会った。

その人は、
小田原城址と比べても負けない程見応えのある城跡だね!
と、今見て来た山中城趾の感想を言いながら、
国道を横切り三島方面へ旧街道を歩いて行った。

頑張って!パー
と後ろ姿に声を掛けました。


旧東海道、一度は歩いてみたいな~
でも、ちょっと無理だね あせる
と話をしながら、私達は宿泊先へ出発しました。

熱海の様子は次回に続きます。



最後までお付き合い有難うございました。