二宮尊徳の「生家」と「尊徳記念館」



5月28日(木)
小田原フラワーガーデンからの帰路、
ナビの案内に任せハンドルを握っていると、

道脇に「二宮尊徳誕生の地」と書かれた大きな石碑が目に入る。
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その脇に古い建物。

えっ? 二宮尊徳(二宮金次郎)の生家?
見て行こうか!

またまたいつもの「思い付き行動」ですパーにひひ


通り過ぎていたが、
広い所でUターンし行ってきました。


入り口には記念館の木製の看板
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入ると近代的な建物の「尊徳記念館」
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尊徳記念館の入り口左脇に、尊徳の教えと考えが書かれている。

人生の範となる二宮尊徳。
早速その教えが出てきました~パンチ!
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至誠…勤労…分度…推譲

分かって居ても、なかなかこの通りには出来ないな~
反省

敷地の左方に、通りすがりに見えた茅葺き屋根の生家
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二宮金次郎って小田原生まれだったんだ~
と今さらながら知りました(汗)

生家の庭には、尊徳の銅像
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建物内部
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今日、外は暑いが家の中はとても涼しい。
爽やかな風が家じゅうを流れていた。
昔の家は、こんなにも夏涼しかったとはビックリ。

これなら、エアコンや扇風機いらないねグー

冬は寒そう??


当時の糸車が展示されている
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昔の用具
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現代の家ばかり見ていると
こういう住まいがとても魅力的に映る。

二宮金次郎は天明7年(1787)に小田原に生まれた。
その時の誕生の家の説明書き
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文化財指定書
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生家のことについての説明
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折角寄ったので、生家の隣にある「尊徳記念館」へ入ります。

資料が展示されている「展示室」は有料です。
200円の入館料を払って入場。

私達以外いないので、急いで電気を付けてくれました。(笑)


入り口を入ろうとすると、
ボランティア・ガイドの男性が、声を掛けてくれた。
館内の説明をして下さるとの事。

何分時間ありますか?

と聞かれるが、帰る時間もあるので、

30分程なら…

と、遠慮なく案内をして頂くことにした。

酒匂川は何度も氾濫していたようだ。
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4歳の時、近くを流れる酒匂川の氾濫で、金次郎(尊徳の幼少時の名前)
の実家は、多くの田畑を失ったそうだ。

13歳で父を、15歳で母を亡くした。
結果、金次郎は弟と二人親戚の家(伯父)に預けられた。
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紙も明かりも乏しい時代、
箱に砂を敷き、横から入る光の陰で文字を書いて勉強したらしい。
昼は働き、夜には、夜が明けるのが忘れるほど勉強。
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土地を耕しながら読書して、儒教的教養と合理的精神を見につけた。
彼は努力の結果17歳で伯父の家を出て、名主に奉公し19歳で独立。

武家奉公や荒れ地の開墾、米や金の貸付でお金を貯めて、
父の時代に失った田畑を買い戻したそうだ。
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金次郎のそうした取り組みが評判となり
小田原藩の家老から、財政の立て直しを頼まれる。
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そのうち、藩主からも下野国桜町領(栃木県)の立て直しを命令された。

桜町の地図
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二宮金次郎は、成田山で21日間の断食修業。
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当時の村人たちの中には、怠け者やばくち好きが多かったようだ。
金次郎の、まじめに働く事を求められる指導は理解されにくかった。
彼は悩んだ挙句、成田山新勝寺に入り、断食して仏にすがる。

そこで悟りを開き、桜町に戻った金次郎は、村人に信頼を得て、
彼の桜町領の復興は次第に成功していった。

小田原の仕法
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天保の大飢饉を予測した金次郎
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この時、言う事を聞かない役人に命じ
士農工商の時代、
武士に命令をして蔵を開けさせる武士ではない金次郎の様子。
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ガイドさんは「ちょっと大げさすぎるかも…」との事でした(笑)

その詳細が書かれています。
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二宮金次郎は、いろいろな所から復興の指導の依頼があり、
手がけた村々は600か所以上だったそうだ。

その場所の紹介のパネル。
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桜川堰の話が紹介されていた。
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その時の堤防を作る金次郎の姿
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ガイドのお話によると、
残されている草履などから、
二宮金次郎はかなり大きな体だったようだ。


金次郎は天保13年、幕府の役人に任命され、
「二宮金二郎」から「二宮尊徳」と名乗るようになったそうだ。

仕事では、専門の人以外でも、
同じように村の復興が出来るようひな形を作ったそうだ。
当時としては画期的な考え方だろう!
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二宮金次郎の仕事の一つ
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二宮尊徳の身内
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彼らも二宮尊徳に負けずに頑張ったようだ。

二宮尊徳は、一円札の肖像画にもなっていた。
一円札は見たことなかったので知ら無かった(笑)
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ここで、ボランティアガイドの方の説明では、
海外で多くの方に読まれた、
内村鑑三の著書の「代表的な日本人」の5人の内の一人
として紹介され、
海外で良く知られた日本人の一人でもあったとの事だ。


私利私欲を持たず、人々の事を考えた生き方
は、何処の国の人も感銘を受けるだろう!

日本人である私達は、もっと彼を知るべきだ!と思った。



今まで二宮金次郎と言うと、
学校の校庭で、薪を背負っている姿を覚えているだけで、
二宮金次郎がどんな人なのかは、今日まで良く知ら無かった。


今回、ガイドの方に
とても分かりやすく説明をして頂き、彼の生き方を知りました。
心から感謝です。



尊徳記念館には、
二宮金次郎(尊徳)に関係している資料が沢山展示されている。

当然と言えば当然ですね。


尊徳の遺品などは、所有者の承諾を得る必要があるので、
全ての資料のご紹介は控えます。
今回は写真撮影の了解を得た上で撮影しました。


尊徳記念館のロビーには、
子供の頃、学校で見た懐かしい姿の金次郎の像があった。
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これこれ! この姿ですね!

今度、孫を連れて見せてあげたい! グー
…という思いを胸に、
金次郎の像に別れを告げ家路につきました。



今回の、思い付き行動は、
心から寄って良かった!と思える結果となりました。



最後までお付合い有難う御座いました。




文中、説明が足りない所や間違いもあるかも知れません。


ガイドさんの説明を一生懸命思い出しながら書きましたが、
何分、記憶力が乏しいこの頃です(苦笑)
足りない所は以下のサイトを合わせてご覧頂きますよう、
よろしくお願いいたします。



参考資料ご紹介
二宮尊徳の詳細(ウィキペディア)

尊徳記念館のHP

報徳博物館
尊徳の説明があります