伊豆下田の街歩き

 
水仙まつりを後にして、下田へ向かいます。
 
朝来る途中、車窓より河津桜の脇を通りましたが、
まだ桜は蕾のようでした。
今年の河津桜まつりは、2月10日~のようです。
 
一昨年見に行った時は、確か3月初旬。
桜はまだ早いですね(笑)
 
 
下田に入って直ぐ道の駅があります。
そこに車を停めさせてもらい、歩いて街中に向かいます。
 
道の駅の脇にこんな絵が・・・
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下田に縁のあるペリーの顔でしょうか?
 
 
時間は11時半、そろそろ昼食の時間です。
事前に調べてあった、お魚の美味しいお店に寄りました。
伊豆は港町、きっとお魚が美味しい チョキ
 
そのお店がこちら フグ
 
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フグ 伊豆下田 勝 フグ
「魚でめし魚でさけ」と看板に書かれています。
 
入口前で、メニューを見ていたら、
店員の女性が、
中から引き戸を開け、迎え入れて頂きました。
それ程広くない店内ですが、作りも良いお店です。
 
 
平日の昼前なのに、すでに先客が数組いらっしゃいました。
 
席に通され、メニューを開いたが、
ブログでお勧め!と紹介されていた2品を迷わず注文。
 
下田丼
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まかない丼
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この写真は、お店のネットから拝借。
 
その理由は、
あまりに美味しく、食べるのに夢中で、にひひあせる
すっかり写真撮るのを忘れていたのです(苦笑)
 
程よい酢飯の上に、新鮮なお魚がいっぱいです。
どれも肉厚で新鮮。
 
小食な私にはご飯の量が多かったが、
あまりに美味しくて完食。後でお腹が重かった(笑)
 
流石にブログで一番人気のお店。
久々に、美味しいお魚を頂きました。
 
ご興味ある方はこちらをご覧ください。
ダウン
 
 
お店を出ると直ぐ橋です。
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両岸には漁船が係留されています。
 
欄干には、帆船が何か所も。
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同じ船?と思ったら、船の形が違うようです。
どうやら黒船8隻が紹介されているようです。
 
 
普通なら、漁港だったと思うのですが、
ここは下田。
 
江戸時代、黒船来航の歴史街。
NHK大河ドラマの「花燃ゆ」の時代に関わる下田の街
これからもっと人気の街になるかも・・・ ですね
 
 
さらにご興味ある方は ⇒ 下田観光ガイド
 
 
 
 
歩き始めて直ぐあった下田温泉観光案内図
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観光案内図を用意していなかったので、
この地図をデジカメに撮り、カメラを見ながら歩きました(苦笑)
 
今回、私達は赤い線の道を歩きました。
因みに、先ほどの昼食のお店は、現在地を左に橋を渡った左側です。
 
歩き始めると、あちこちに「なまこ壁」
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なんと、ここは信用金庫でした。
 
 
足元のマンホールも黒船
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さすが下田、徹底しています
 
 
海善寺
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山門が立派なのですが、奥に見える本堂は近代的な建物。
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海善寺
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当時戸田忠次が徳川家康公より五千石をもって下田領主として封ぜられた居館の跡である。文久3(1863)年12月、徳川十四代将軍家茂が翔鶴丸で上洛の途中、西風に阻まれて当寺で越年した。また、明治2年神子元灯台が築かれた時、英人技師と護衛の県兵の宿舎にもなった。
本堂は昭和34年の火災で焼失し、モダン建築で再建されたが、三門は江戸時代の面影をそのまま残している。また、有名な念仏行者徳杢上人が当寺で説教し、名号塔を残された。
(海善寺紹介HPより)
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先ほどご紹介した街の案内図でも分かるように、いたる所に、
隣合ってお寺や神社が並んでいます。
 
 
海善寺の隣が宝福寺
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入り口に坂本龍馬の銅像があります。
調べてみると・・・
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お寺のホームページより


唐人お吉菩提寺、
お寺のホームページより
  1. 永禄2年(1559)11月、信長の圧迫を逃れ、本願寺第11代顕如並に法孫釈了善、真言を改め開基。
  2. 文久3年1月16日、宝福寺に滞在中の山内容堂に勝海舟が来山し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許される。当日、龍馬は町の旅館にあって、その朗報を待っていた。
  3. 嘉永7年(1854)日米和親交渉にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれた。尚、東大地方史研究中・福田寺を奉行所としてあるのは、編集員に対して、誤って口伝えしたもので深くお詫び申し上げて、改めて、ここに訂正するものである。
  4. 唐人お吉菩提寺、
 
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宝福寺の説明
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本堂
 
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道沿いに蔵?と思ったらトイレでした。
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トイレまで「なまこ壁」チョキ
 
大砲や大きなイカリが出現
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ここは下田市民文化会館の前
 
大砲は1837年製カノン砲と書かれています。
1989年、米海軍横須賀基地司令官から贈られたものらしい。
 
次に出てきたのが大安寺
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ここの書かれていることによると、薩摩十六烈士の墓のようだ。
御用材を運ぶ途中嵐に遭い下田に入港したが、御用材を捨てた責任で
乗組員16名が切腹。残っていた柘の木は寺の本堂に使われているそうだ。
 
しかし、ここでもペリー艦隊と関係があります。
ペリー艦隊の船員が遊女を写真にとっている錦絵が保存されているそうだ。
 
 
うっかり本堂の写真がありません。
大変失礼しました。
写真や説明などはこちらをご覧ください。
 
 
次は、本覚寺
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ここもペリーに縁がある?
・・・と 調べたが、何も出てこない。
 
 
でも、日蓮宗と言えば、
これから向かう歴史的にも有名な了仙寺と同じですね。
 
了仙寺へ続く本通り沿いには、
地図で見ると7つの神社やお寺があります。
流石に全ては見られませんので、この位にしました。
 
あちこちに風車が目につきます。
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なぜ風車???  気になります。
今日は気になることばかりです。
 
調べてみると、
下田では、「風の花祭り」が3月から4月に行われるようだ。
その一部が所々にあるようです。
納得グッド!
 
この風の花祭りの事に興味ある方はこちらをご覧ください。
ダウン
 
 
 
道脇のなまこ壁の下にお花を飾っていました。
綺麗だったのでカメラキラキラ
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了仙寺に着きました。
 
こちらが歴史に名を残した、了仙寺本堂
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本堂前の梅の木の蕾が一輪咲いていました。
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 下田には、そろそろ春の風が吹いているようですねチョキ
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ワンポイント知識
 
了仙寺の歴史
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了仙寺は寛永12年(1635年)、第2代下田奉行・今村伝四郎正長によって創建されました。大阪夏の陣の時、目に病を持たれた徳川家康公は、家臣の勧めにより、当時目の神様として崇められていた身延山久遠寺第十一世の行学院日朝上人に病気平癒の願をかけられました。その祈願が成就したため、徳川政権安定の時に寺を建立することを約束されました。
今村正長公によって創建された了仙寺には、当時の幕府の将軍・徳川家光より朱印状によって領地が与えられ、家康公の祈願成就に奉じました。
従って、了仙寺の寺紋は徳川家の紋である三つ葉葵です。
1854年、日米和親条約が締結され、ペリー艦隊が開港された下田に入港すると、了仙寺はペリー一行の応接所兼幕府との交渉場所となり、和親条約の細かい取り決めである下田条約がここで結ばれました。
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境内の脇にある銅像
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台座に立正安国と書かれています。
と言う事は、日蓮和尚なのでしょうね。
 
本堂の向かって左奥(本堂の裏)に洞窟がありました。
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中には入れませんが、ペリーよりも古い歴史のようですね(笑)
ペリーもこの遺跡を見たのでしょうか?
 
 
横穴遺跡と書かれた案内がありました。
 
横穴遺跡案内
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そうそう!了仙寺でもう一つ忘れてはいけない事が有りますね。
 
了仙寺は、ジャスミンの寺としても有名でした。
 
 
ここの境内から参道(ペリーロード)にかけて、5月中旬から下旬に
数百株のアメリカジャスミンが咲きそろいます。
数年前に来た時、とても良い香りが漂っていたことが印象的です。
 
でに、何故お寺にアメリカ・ジャスミン?
またまた、、、気になります。
 
 
あちこち調べていたら、寺の住職のお話が見つかりました。
 
先代の住職が、外国との歴史が深い下田市ということで、
艶っぽさを感じられる花を・・・と先代が選んで植えたようです。
 
アメリカ・ジャスミンの歴史は、まだ新しいようですね(笑)
 
ところでアメリカ・ジャスミンって外来種?
と思ったらナス科だそうだ。
びっくりですね!
 
帰り道は、お寺から続くペリーロードを歩きます。
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川の両側に、歴史を感じさせる街並みが続きます。
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蔵?と思ったらカラオケボックス(笑)
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流石に、ペリーが居た頃は、カラオケボックスもなかったでしょうね!
 
川に掛かる橋で、猫のうたた寝
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穏やかですね。
平日のせいか人通りも少なく、本当に静かです。
 
 
石造りの蔵や歴史を感じさせるガラス窓の家が続きます。
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その昔、
この道沿いは花街だったそうだ。
 
 
このペリーロードを、
当時マシュー・ペリー提督が歩いたと言われています。
了仙寺から一直線に続く道でした。
 
 
かなり人気の道のようだが、
思ったより短く、期待し過ぎると・・・あせる
 
建物の保存を徹底している妻籠などとはちょっと違うようです。
 
私には、
歴史と、現在が、戸惑いながら共存しているように感じました。
それでも、残してほしいですね。昔の日本を・・・
 
その突き当りにあった大砲
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ゆったりとした気持ちで歩けたペリーロードでした。
 
 
ペリーロードの歴史に興味ある方はこちらを
ダウン
 
 
ペリーロードの曲がり角に
壁一面が「なまこ壁」の建物がありました。
 
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気になり、覗いてみると無料で建物の内部を見ることが出来るようです。
早速拝観させてもらいました。
 
この建物は旧澤村邸
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澤村さんは、下田ガス株式会社の社長さん。
平成22年に下田市に寄贈されたようですね。
 
「なまこ壁」の外壁に歴史を感じます。
 
 
床の間
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廊下
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休憩所
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休憩所に展示されていた人形
ペリー来航時の衣装の人形でした。
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休憩所の目の前がペリーロードです。
この突き当りが了仙寺
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休憩所から中庭を眺める
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 家から続いている蔵で、
「大久保婦久子さん」の作品展が行われていました。
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大久保婦久子さんは、
下田の生まれで文化勲章も受賞されている方だそうです。

 
蔵なので、壁が大谷石でしょうか?
石の壁に皮細工がとても落ち着いて素敵でした。
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この旧澤村邸は、二階もありますが、
一般は見ることが出来ません。
 
その理由は、なんと!
下田芸者の稽古場として、今も使われているそうです。
この日も、二階から歌の声が聞こえていました。
 
芸子遊びの経験が無い私です。
非常に興味がありましたが、声だけで我慢我慢ですね(笑)
 
 
 
旧澤村邸を後にし、道の駅へ戻ります。
昼食の後渡った橋へ漁港沿いを歩きます。
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漁船が沢山係留されています。
今日は漁がお休みなのでしょうか?
 
素敵なヨットもあります。
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下田の海をクルージングしてみたいですね~
 
道脇に綺麗な花が・・・
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調べてみたが名前が分かりません。
葉がクローバー似ている白い綺麗な花でした。
 
 
やっと出発点の橋に戻って来ました。
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山に向かって右側の入り江を、
突き当りまで行き、右に曲がるとペリーロードです。
 
またアメリカ・ジャスミンの咲く頃、来てみたいな~
 
 
道の駅に戻って来ました。
 
ホールには、風車で出来たお魚が展示されています。
金目鯛でしょうか?
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金目鯛の煮つけが食べたくなりました(笑)
 
道の駅の周りには、ヤシの木?
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南国を感じさせる木ですね。
水仙の駐車場のお兄さんが寒い~と言っていたが、
私達には暖かく感じました。
 
伊豆は、我が家近辺と比べると、随分南国(笑)
 

 
下田の街歩きの記録
         時間 = 1時間半(食事と澤村邸見学含)
歩数 = 5500歩      
 
 
 
さて、まだ今日の予定は続きます。
 
次の目的地、稲取のつるし雛へ向かいます。
 
続きは少々お待ちくださいね。
 
 
ここまでお付合い、有難う御座いました。