5/7〜10
 ケベック・シティ 続き


 城壁内(アッパータウン)

ケベックのシンボル
フェアモント・ル・シャトー・フロントナック
ロビー内、観光客であふれていた
5つ星ホテルはどこもC国のツアー客でいっぱい、
カナダのシャトー系のホテル、シャトーレイク
ルイーズは20年前でもC国ツアー客で占領されてたわ


テラスデュフランから戦場公園に続く道
360段の階段 右はセント・ローレンス川










ノートルダム大聖堂内部 

サン・ジヤン通り






クレープ屋さん
ケベックのクレープはデザートというより
食事感覚 そば粉のクレープもある
CASSE CREPE BRETON

ハム、チーズ、野菜を挟み、最後にお好みでメープル
シロップをかける、





州議事堂前のトーナメントファウンティン
1855年パリ万博の金賞の作品 




サン・ルイ門







城壁外(ローワータウン)


帰国して救急車で運ばれて6/3が手術日となりました



私の腫瘍は首の後ろと肩のラインの交差点
頚椎の4〜5番目辺り、後の髪が邪魔なので
手術前には院内の理髪店(散髪屋)でワカメちやん
カットにひらめき多分戦前のヘアスタイルに!


プチ・シャンブラン地区
の首折階段

手術前日にはN医師より運動神経を切って硬膜内に
入る為車椅子生活になる覚悟、腫瘍はおそらく良性
だから生命に別状はないと思うとの説明を受けて
承諾書にサインした



(悪性の場合は脊髄腫瘍の生存率は平均で約10ヶ月、
5年生存率が3%と言われている)
その時はこの痛みから解放されるのなら、車椅子でも
やむ無しでした。庭の花でも眺めながら静かに
暮らそうと思ってました


手術は仰向けではなく、顔の部分に穴が空いてる
手術台にうつ伏せに。なぜか麻酔が効く前に祈って
いたのは手術の成功ではなく、娘の幸せでした。

 
6時間の手術を終えて病室に運ばれてきたら
案の定ダンナはいなかった。

 
執刀医やら手術スタッフさんはおそらくお昼も
食べないで頑張って下さったのに。
何や ウチのダンナは家に帰り、たらふくお昼食べて
何してる!会社休んだ意味ないやん!


大体旅行のことばかり考えて、私の体調に無関心ムキー
鈍感この上ないわムキー


 術後の私が電話して呼び戻した始末。
先生にも「手術の経過報告ができない」
看護婦さんから「手術中に何かあったらどうするの」
叱られてました。


肝心な手術は思いの外、腫瘍がポロリと取れてくれて
最小限の神経切断で済んだらしい、メデタシ 感謝


6/10には無事退院出来て、首にギブスをはめた生活、
首は曲げないでって言われても、リハビリだと思って
お風呂洗いしましたよ 


3ヶ月後には自転車にも乗れるようになりました。
そしてなんとなんと術後検診で病院に行ったら
担当のN医師、医師から医長に昇進してるではないか!


 これって10万人に1〜2人の希少な手術の
 成功症例のおかげ 私の優秀な腫瘍のおかげ?
      もしかして私 あ げ ま ん❗❗
(昭和の死語かしら)
いえいえ、N医長は私の命の恩人です。


5/8
 ケベック空港→トロント空港 AC8909
 娘と別れる

トロント空港→成田空港   AC009
成田空港着  14:25

ドライブを支えてくれたロードマップ


留守宅に帰ってきたら満開のパンジー、ピオラが
迎えてくれました
 
 ダンナへの怒りはまあ今後は人間ATMとして
 付き合うわ、ちょっとショボいATMだけど。


カナダ🇨🇦東部旅(2010.4/30〜5/10)お付き合い
下さりありがとうございました🙇
昔の事を思い出しながら、オタワのチューリップ黄チューリップ赤チューリップ紫チューリップピンクチューリップオレンジ
改めてキレイだったなと思いながら、
この時はこんな体調だったなあとなつかしく
思い出しながら、
小走りとか飛び上がったりは出来ませんが
生活には何の支障もなく一年も経たないうちに
また海外旅に出かけました。懲りないのよ。    万里