吉田兼好児の速筆ライトノベル随筆集「土佐日記」より。秋のプラットホーム・母の涙 兄弟

 

◆親父の三番目の妹(伯母〉は同じ安田唐浜の吉尾家に嫁いだ。吉尾家の長男(叔父)は明治大学商学部出身で生前は名古屋で税理会計士をしていた。明治大学では拳闘倶楽部〈ボクシング部の前身〉に所属し全日本バンタム級学生チャンピオンになり、卒業後プロに転向した。白井義男は1952年にアメリカのダド・マリノを倒して世界フライ級チャンピオンになったが、その前に叔父はダド・マリノと戦い敗れている。その叔父には息子がなかった為、実弟は生れてまもなく吉尾家へ養子に出された・・・・。「ごめん」・高知の中部南国市にあるJRの駅名である。全国の珍しい駅名にも登場したこの駅は、JR土讃線高知方面と室戸方面行き奈半利線との分岐点の乗り継ぎ駅でもある。浮き浮き気分で高知にやって来た観光客は、列車がプラットホームに到着するなり、“ごめん、ごめん”、とスピーカー音が鳴り響く、『 ね~ちょっと・聞いた!?、何に・この駅名、ごめん!?』、とまず驚かされる。「ごめん」駅は、土佐のイゴッソー・ハチキンが心を込めて観光客へ御挨拶する第一声の駅である。1953年、僕のすぐ下の弟は生まれた、名前は寛(ひろし)・三男である。当時は、終戦後の不自由な時代である。男の子に恵まれず跡取りもなく寂しい思いをしていた叔父伯母は、それとなく、“清岡家に、もし次に男の子が生まれたら吉尾家に養子にくれない?”、と親父に相談があったらしい。『清岡家は、長男は家督を継ぐが、次男・三男は家を出て外で働くので、せめて教育だけは受けさせなければいかん、こんな田舎じゃ、ろくな教育もできん、三男は名古屋の吉尾家へ養子に出すからな!』・この親父の一言で決まったらしい、英国で云うBlack Sheep Peopleの日本版である・・・。弟が生れて6ヶ月目、すこし肌寒くなったある日・名古屋から叔父伯母がやって来た、弟を養子に渡す日である。安芸駅から「ごめん」駅までの汽車の中、親父・叔父・伯母、オフクロは弟を放さず抱きしめた儘、長い沈黙の一時間が過ぎ、「ごめん」駅に着いた・・・。古木を継ぎ足した「ごめん」駅のプラットホームは南国の秋の夕暮れに真っ赤に輝きながら長く伸び浮かび上り揺れ動いている・・・、高知から高松行きの汽車が到着した、叔父・伯母・弟との別れの時が来た・・・・プラットホームのベルが鳴り響く、オフクロは弟をしっかりと抱きしめた儘手放そうとしない、親父が怒鳴った、『洋子!、いったい何をしているんだ!速く子供を渡さんか・こら!、汽車が動き始めるぜよ!』、オフクロが汽車の入口に立つ伯母に、やっと弟を手渡した・・・、汽車が動き始めた・・・、まだ秋の長い陽ざしがきしむ木造りのプラットホームに何処までも伸びている・・それまで、黙っていたオフクロが急に大声で泣きながら・・走り始めた汽車を追っかける・・・、『洋子!、危ない!、やめろ~や!』、親父が怒鳴りながらオフクロの後を追っかけ抱きついて止めた、プラットホームを覆っていた汽車の煙で真っ黒くなったオフクロの顔には、いつまでも涙が流れ落ちていた・・・・。「ごめん」駅に来る度に、いまだに、あの時のオフクロの顔、そして弟と別れた時のあの秋の景色が眼に浮かんでくる。叔父伯母は清岡家に責任を感じていただろう、実弟)寛を本当に愛情深く育てくれたし、またしっかり教育もしてくれた・・、清岡家は皆な吉尾の叔父伯母に心から感謝している。寛は地元名古屋の明和高校を卒業後に名古屋大学に進学し名古屋大学大学院博士課程修了後に愛知県内で大学の教職についた。僕が平成14年に高知に帰って高知工科大学連携センターに勤務し始めた・その年に、寛は名古屋から高知大学人文学部教授として赴任してきた。お互い大学での仕事が忙しくろくに会って話す機会もなく、寛が大学で何をやっているのかも・僕は全く知らなかった。そんなある日、一冊の学識本が寛から贈られてきた、実弟)寛は歴史学者になっていた・・・。

 

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