吉田兼好児の速筆ライトノベル随筆集「音の履歴書」より 生き様と家族 唄と人生 人間万事「塞翁が丙午」 

 

コロナ禍で、自分の「生き様」と向き合う時間が多くなった・・・この歳になると、“まーあ”、なにも焦らず時の過ぎゆくままに暮らしている・・・。今、過ぎた日々を振り返れば「万事、塞翁が丙午」だったかな?・・・。

◆愚息)長男は、日本企業シアトル駐在員時代に日系カナダ人の嫁と結婚し・現在、日系カナダ人国籍の事業家としてバンクーバーで暮らしている。横浜生まれの孫たちも、カナダで成人して日系カナダ人2世として頑張っている様だ・・・。また、長女家族や次男などは、神奈川県、大磯・茅ケ崎・藤沢・横浜で暮らしている・・・。

今では、長女・長男も歳は50代、次男は40代後半となっている・・僕には、既に自営で独立して所帯を持っている孫に曾孫が2人、その他・孫が3人いるようだ・・。

◇「親の心は子知らず」だが・・・この長女・長男・次男が小学生・幼稚園児の時代、3人の子どもを抱えて、生きるためにジャズを唄って弾いた時代がある・・・。サラリーマンを辞めてイギリスの研究所に渡り、その後、英国企業の造船・石化プラントの電気防蝕のEngineering Representativesで生計を立てていた“フリーランス業”の頃は、とにかく忙しくて、韓国(プサン・ウルサン)・シンガポール・クエート・サンフランシスコ・アトランタ・ヒューストンなどを飛び回り、ほとんど毎月一度は外地に出張し日本の家を空けていた、帰国すれば、ジャズ仲間から呼びがかかり、家族と一緒に休む暇なく・すぐに、ギターを持ってジャズバンドに遊びに行ったりして、3人の子供たちの育児はすべてワイフに任せっぱなしだった・・・、そんなある日、ジャズ演って家に帰ると・・当時小学4年生だった長女が「パパ、お母さんは出ていったよ!、もう家に帰って来ない!と、言ってたよ!」・・・、食卓の上に置手紙「子供たち3人はアナタにお任せします、よろしく‼」と一筆、それにワイフの印を押した離婚届があった・・・・。“ワイフには本当にすまないことをした!”、と、悔んでも・もう、後のまつりだった・・。ワイフと別れたその後は、外国への出張もできず、日本の顧客からの請負仕事を中心に稼ぎながら、小学4年の長女と小学1年生の長男、それに幼稚園年中生の二男と家族で過ごす日々が続いていた・・そんなある日、突然、長期契約先のイギリス企業が北海油田開発コングロマリートに買収されてしまった・その結果、イギリス企業の“Representatives”権を失った・・。日本で予定していた仕事がすべて無くなり月々の収入も突然ゼロとなった・・、とにかく、3人の子供たちを食わすために稼がなければ、と、昼間は・英語辞典のコミッションセールスをやり、夜は・渋谷や横浜関内のピザの人気店「シェーキーズ」で、ジャズ仲間のピアニストとデュオを演った・・。

昔、米軍のジャズ先生から頂いた「1001」をめくりながら外人客のリクエストにも応えて弾き唄いまくった、音楽の仕事は30分の5ステージ、ジャズスタンダード40曲ほどを毎晩演っていた・・、店の要望で楽器はギターでなくバンジョーだった・・・バンジョーは、ジャズ仲間から譲り受けたギターチューニングの4弦テナーバンジョーを使った・・・・。週末土曜日は、学校も保育園も休みで、長女・長男・次男を連れて、「シェーキーズ」に入った・・店から貰ったピザ食券で、演奏の休憩時間に、子供たちとピアニストの同僚と一緒になって“ピザパーティ”を楽しんだ、毎週土曜日の夜は大好きな“シェーキーズピザ”で、長女も長男も次男も大喜びだった・・・。

◇やはり、人間万事「塞翁が丙午」。大学入学の昭和36年頃は、土佐の片田舎では・・旅芸人やチンドン屋・楽隊屋などを、その日暮らしの“河原乞食”と呼んでいた・・・。「河原乞食にさすために、東京に仕送りするわけではないぞ!」と実兄が・・「ま^あ、芸は身を助けると言うこともある!、そんなに好きなことなら行かせてやれば・・」と、この祖母の一言で許されて、東京声専音楽学校の夜間ジャズ科に通い、ギターと唄のTib Kamayatsu先生のレッスン後、米軍横田基地「オフィサーズ倶楽部」専属ジャズピアニスト歌手Sammy Kajiwara先生からジャズ歌手としての個人指導を受けた・・・。世間にまだジャズ歌の譜面のない当時、貰った教本はミュージカルのヒット曲がぎっしり詰まった「1001」だった・この本が、「芸が身を助けてくれる大切な御守」となった。

 

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