思い出が詰まりすぎた場所で驚いたこと | ”投資家列伝” 研究して実践する "まさ" のブログ

思い出が詰まりすぎた場所で驚いたこと

昨日、自分が20代を過ごした高円寺を数年ぶりに歩いた。

馴染みだった店のいくつかはもうなくなり、2番目に自分が住んでいたアパートは建て替えられていた。

最初に住んでいたアパート(大家はマンションと言っているが、雨漏りする3回建て)は、28年前と同じまま建っていて、
僕の住んでいた部屋には明かりがついていた。

自分のこの28年間が何もなかったように感じられた。

馴染みだった、すごく狭くて旨い餃子屋は未だやっていて、
マスターはすっかりヨボヨボになっていけど、
僕をよく覚えてくれていた。

「○○君は 自分は**が好きだとか、**はすごいとか、目を輝かして話してくれたよ。」

自分で忘れていたことまで、よく覚えていて話してくれた。

それどころか、自分が目を輝かして、この街の誰かに熱く語る情熱があったことを全く忘れていたけど、話の整合性から考えてマスターの記憶の方があたっていることになる。

この街に、そういう自分を覚えていてくださる人が今もいるありがたさを感じていると、その狭い店内で初めて会った人が、まあまあと自分のビールを僕のコップに注いで、金は受け取らない。

そのビールを飲む時の気持ちは28年前と一緒に思えた。
そう思いたかっただけかもしれないけど。