こんにちは。

情報コミュニケーション学部の小嶋です。

 

 

 

 

 

 

今回のブログのテーマが「おすすめの授業」みたいです。

情報コミュニケーション学部の授業は、さまざまな分野の入門編のような授業が多く、知識の幅が広がるような、そんな特徴があると感じています。

そんな情報コミュニケーション学部のおすすめの授業は、「総合講座A 明治大学の歴史」です。

 

 

 

 

 

なんだそれと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、実際に存在する授業です。

去年の秋学期に清水くんと一緒に受講しました。

 

 

 

 

 

 

明治大学の創立者である岸本辰雄先生、宮城浩蔵先生、矢代操先生の出自や明治大学創立にあたった経緯から授業がスタートし、

 

 

小田急電鉄の創設者である利光鶴松や日本レコード賞の創設に携わった作詞家、古賀政男。日本レコード賞作詞賞を7回、作詞大賞を8回受賞し、代表作に「また逢う日まで」、「UFO」、「勝手にしやがれ」などの阿久悠。一世を風靡し、代表作に「幸せの黄色いハンカチ」、「鉄道員」などの俳優、高倉健などのOB OGのこと。

 

 

法律を学ぶ単科の学校としての明治法律学校が今の明治大学の起源であることから、国内外の法曹界にもたらした影響の話。

 

 

旧日本陸軍の研究所の跡地に今の生田キャンパスが建てられていること

 

 

プールのある和泉キャンパスも、以前は旧日本陸軍の土地だったこと。

 

 

 

 

 

以上のことをとても覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

生田キャンパスが以前陸軍の研究所だったなんて全く知りませんでしたので、特に覚えています。

小さな頃日本史が大好きな、所謂戦国キッズだった僕は、そこそこに第二次世界大戦への興味もあり、

この「明治大学の歴史」の生田キャンパスの話は食い入るように聞いていました。

僕達寮生にも関わっている話だったので、少し紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旧日本陸軍の研究所、正式名称は「第九陸軍技術研究所」、通称「登戸研究所」は、

「秘密戦強化」が主な目的の研究所だったようで、第一科は電波兵器の研究。第二科は毒物、生物兵器、スパイ兵器の研究。第三科は偽札、偽造旅券などの製造が行われていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登戸研究所の中核的な部門であった第一科は、電波や赤外線、紫外線、X線、γ線などの電磁波全般の兵器化を試み、その中でもマイクロ波の活用に力を注いでいたようです。「電波」は、今ではレーダーという認識が浸透していますが、この時の登戸研究所第一科では、「怪力光線」、「怪力電波」のことを指していました。特撮映画などでよく目にする〇〇光線のようなことを本気で実現させようとしていました。実際に戦地での使用が実現することは叶わなかったようですが、サルなどの実験動物を近距離で殺傷出来るレベルにまで到達していたそうです。

また、「ふ号作戦」と呼ばれる風船爆弾の研究、開発も行われていました。風船爆弾は気球に爆弾を付けたものですが、世界で初めて実用化された大陸間横断兵器です。約10,000発が生産され、終戦間際の1944年11月から1945年3月の期間に9300発が太平洋沿岸の茨城県、福島県、千葉県から放球され、偏西風に乗って少なくとも約1000発が北米大陸に到達したものと推定されています。判明している北米の着弾が361発、オレゴン州に着弾したもので6人が死亡しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武器を用いて戦場を走り命の駆け引きをすることを表の戦争と呼ぶならば、裏の戦争である秘密戦の中心的役割を果たした防諜、謀略用の毒薬、毒物生物、憲兵(スパイ)兵器、資材の研究と開発を担当した第二科が開発した青酸ニトリルが1948年1月に起きた「帝銀事件」で使用されたことが疑われています。第二科の主戦場が秘密戦であったからか、あまり情報が出てきていません。

 

 

 

 

 

 

 

第三科は経済防諜戦の一環として、主に中国経済の混乱と弱体化を招くことを目的に紙幣(蒋介石紙幣)の偽造を行っていました。しかし、実態としては当時の日本の紙幣の信用失墜から、中国で資材や食糧などの物資を調達しようとしたようです。偽造した偽札は精度がとても高く、中国経済の混乱を招くと共に多くの資材を手に入れました。ただ、第二次世界大戦末期の1945年には中国が対策として超高額紙幣を発行したことによって日本が発行していた低額の偽札が無効化され、ほとんど無意味なものとなりました。

 

 

 

 

 

 

第二科が毒物や生物兵器、スパイなどを研究していたこと、ふ号作戦や電波攻撃などの殺戮兵器を開発していたことからわかるように、登戸研究所では、数多くの動物、人間が犠牲となる非道な実験が行われていたと伝えられています。

そのことから、当時登戸研究所の所属していた所員には大規模な箝口令が敷かれたとも伝えられています。

第二次世界大戦後の戦争裁判では、登戸研究所の関係者が厳罰に処され、それを恐れた関係者が口を固く閉ざすこともあったそうです。

近年、生田近辺の中学校の生徒の発案により、当時第二科に所属していた方からお話を伺う機会が設けられたようです。

その話によると、聞くに堪えない無残な状況があったと言われています。

 

 

 

 

 

 

以上が大まかな登戸研究所の概要です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人体実験が行われていた場所が、今僕達が生活している合宿所、練習しているプールに位置していることを知っていますでしょうか。

合宿所は多くの心霊現象が起こると言われていますが、まさか、ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怖いなと思う人もいらっしゃるかと思いますが、過去にあったことを知っているだけでも、何か違った景色が見えてくるのではないかなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

最後まで見てくれた方(特に寮生)、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗闇を見て何か気配を感じても後ろを振り返らないことをおすすめします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次はヒロト〜