世界地図を見るとインドの北の方にネパールとブータンがある。ところがネパールとブータンの間は空いていて何だかすっきりしないのだが、この空いている隙間、今はインドとなっている場所にシッキム王国というのが存在した。1975年(昭和50年)まで実在したのだが、インドに併合されて消滅してしまったのである。元々、シッキム王国というのはインドの保護国であった。

$独り言。


1974年8/29、インド政府は閣議でシッキムがインド上下両院に1人ずつ議員を送り出し、事実上、インドへと組み入れる改憲案を9月に議会提出する事を決定した。シッキムでは既に選挙で王制に反対する親インド派と目されるシッキム国民会議派が議会で多数を握っており、6月には改憲案を採択、ナムギャル国王の権限を大幅に削って議会政治へと移行していた。9/4にはナムギャル国王はカルカッタ入りし、あくまでシッキムのインド編入を阻止しようとしたが、「この問題で国際機関に訴えるような事はしない」と明言している。この前夜にはネパールのカトマンズでシッキム主権侵害に反対するデモが学生らによって行われた。しかし9/4、インド下院はシッキムをインドの準州とする改憲を可決、インドと国境紛争を抱える中国の人民日報は「インドの侵略主義」などと批判している。9/11には中国外務省がインドを批判した。中国はシッキム王制支持を表明していた。

 1975年4/9、インド軍はシッキムに侵攻、これはアマチュア無線家の電波傍受によって明らかになったのだった。シッキムの首都ガントクで国王退位を求めるデモ隊にシッキム政府が発砲したのを名目に、インド軍が介入したもので、その日のうちにシッキム宮廷親衛隊400人は武装解除され、パルデン・ソンダップ・ナムギャル国王(51)はインド軍の保護下に置かれた。4/10、シッキム議会は自らのインド編入を可決、ここにシッキム王国は消滅した。インド政府とシッキムの親インド派とされたシッキム国民会議派は、ナムギャル国王が国民会議派幹部暗殺を目論み、首都ガントクの混乱を狙っていたなどと発表、インド政府は2月にナムギャル国王がシッキム閣僚会議の承諾なしにネパールのビレンドラ国王戴冠式に出席した事に不快感を示していた。シッキムの親インド派のドルジ首相がインド軍出動を要請したという形式をとっていたが、事実上の出来レースであった。

 シッキム王国は人口19万人、1817年から1947年まではイギリスの保護国だったが、1950年にインドの保護国となった。シッキム王家は元々、チベット貴族の出で、ナムギャル国王は1963年12月に即位、それに先立つ3月にインドでニューヨークの女子大生ホープ・クックと結婚。しかしクック王妃(35)は政情不安を理由として1973年に2人の王子を連れてアメリカへ帰国していた。ナムギャル国王は皇太子時代の1959年4月に来日、日本女性を后に迎えたいなどと発言し話題となっている。なお、ナムギャル国王は1978年にクック王妃と別居、1980年に離婚し、1982年1/29、58歳でニューヨークで死去した。