「平成狸合戦ぽんぽこ」

古いジブリアニメだけど私はこれが好きで。

時々思い出して見ている。

 

舞台は多分昭和の高度経済成長期だと思う。

古い日本の山里が「開発」によって次々に破壊されていく。

山は切り崩され、人間が住むための集合住宅が建てられ市街地が造成され、

動物たちは住む場所と食料を徐々に失っていった。

主人公の狸の正吉はその動物たちの象徴だ。

 

彼らは色々な方法で人間に対抗するが、悉く失敗する。

その昔日本に神や仏や死んだものたちの霊がいた頃は

霊障や亡霊や妖怪などは最も畏れられる抗しがたい存在であり、

人間はそれらにひれ伏して触らないように生きていた。

しかし、いわゆる西洋の「文明」が発達し、

人間が地上で一番強く正しいという西洋の価値観がすでに定着している社会では、

正吉たちの命をかけた最後の聖戦「妖怪大作戦」も

珍しいパフォーマンスとして人間の目を楽しませただけで終わってしまった。

 

つまり惨敗である。

 

これは過去実際に起きた、一種の「グレートリセット」の物語である。

私達はすでに何回かグレートリセットを経験している。

そして時代が流れ、私達は今次のグレートリセットの波に晒され

正吉たちのように自己の存続をかけた崖っぷちに立たされているように思う。

 

この期に及んで日本人の一部は日本的スピリチュアルに傾倒し、

スピリチュアルな生き方を取り戻すことによって日本が再生すると信じている。

逆を言えば、それが最後の頼みの綱とも言える。

「最後に世界を救うのは日本人」と説いている人の動画をチラッと見たことがあるが

胸が詰まるような思いであった。

残念ながらそんな性善説の神話は、

生き馬の目を抜くような世界の人々には全然通じないと思うの。

まるであの時の正吉たちと同じだ。

あの物語のように、日本の神仏諸精霊が現実的な意味で日本民族を救うことはないのに。

 

日本人は元来、長いものに巻かれる性質である。

その一方で、国を牽引する強い力を持つ武士という階級がいて

良くも悪くも日本のアイデンティティを守ってきた。

しかし、江戸幕府の崩壊とともに武士はこの国から完全に消滅し、

長いものに巻かれる羊のような平民だけが残ったのだ。

その中には機を見るに敏な商人のような人たちがいて

実直で勤勉な日本人の働きとの相乗効果で奇跡的に経済は大きく伸張したが

彼らはいずれも武士ではない。

 

世界の人々が左翼グローバリストの策略を見抜き

戦略的に迎合するか抵抗するかして支配から逃れようとしているのに

戦うことを知らない平民の日本人はただ流されてオロオロするか(岸田や私達はこれにあたります)

豊かな人は国から逃げ出す算段をするか(芸能人や資産家など)

未だに何にも気づいていない極楽とんぼ(SNSにたくさんいる)か、そんなもんです。

そして、この国にかつて存在した武士の幻影を見て

戦いを挑もうとする人たちの動きも徐々に高まってきたようにも思えますが時すでに遅し。

私にはその人たちが正吉たちに見えるんです。

 

日本の正吉たちが敗北するのは時間の問題。

 

しかしですね、

平成狸合戦ぽんぽこのいいところは

妙なリアリズムをもって「その後」の私達の生き方を示してくれているところなのです。

 

戦いに敗れた正吉たちはしかし完全に駆逐されたかと言ったらそんなことはなく、

人間に化け、人間と同化して社畜として働き、

豊かな野山ではなく、人間と同じ小さい箱のような集合住宅で暮らすのである。

生きるために。

そして満月の夜になると、人間社会に紛れ込んで生き延びている狸たちがどこからともなく公園に集まり

皆でお腹を叩いてポンポコ踊りを楽しむのがなんとも痛快である。

 

彼らはこんな状況に置かれても、月夜の庭で輪になって踊るのである。

その姿に哀愁はあるが怨念はない。その光景はもの悲しいが悲壮ではない。

それは2000年もの間、民族の言語と教えを守り続けてきたユダヤ人のような

確固たる執念や信念のようなものなんかでは全然なく

ただ生まれ持った民族の習性。

故郷のみならず狸というアイデンティティまで奪われたにも関わらず

つい習性で、月夜になると踊りだしてしまう、

そんな狸たちの鈍感力なのか包容力なのかが、実に日本人らしいと思うのです。

 

これが最も現実的な私達の「その後の」生き方であり、

しかし唯一無意識の抵抗なのかもしれない。