きっとこの世界は生まれついての自分の使命感に気づけた者とそうでない者で回っているに違いない。それに気づけたか否かで得られる祝福の差は大きい。磨きあげ力を尽くし、力添えを得ることも実はそう難しくない。ただその一方惰性で生きてきた者にはまさにその瞬間、積極的であることが善であり、消極的なことが悪であるその現実を、ただただ見せ付けられ、成す術もなく立ち尽くすしかないのである。

 

 自分の知らないところで、贅を尽くし、楽しい時間を何とも無邪気に過ごし、この上ない幸福を得る中で、一方のものはそんな幸福とは裏腹にそうでないものはそんな人たちを深読みをしたり妬んだりすることでしか自分を鎮める術がないことをその年齢を重ねることにより知っていく。その使命感を自分自身が気付く機会を自ら喪失していることなど知る由もなく。


 どんな苦難が待ち受けていても、使命感のあるものにとってはその問題は実に容易い。何をどうすればよいのかを直感的に知っているからだ。ただ時間が解決してくれる問題なのか、根本的な改善の必要な問題なのか、はたまた一人では解決できないだけの問題なのかはたまたその逆もしかり。一見苦難に見えてもそれを乗り越える術を彼らは身につけている。精神的にも肉体的にも。だからこそ力をいかんなく発揮できるのであってそれ自身が使命感につながっていくと思える。


 では、そうでない者はどうなのだろう。いつしか自分の生まれついた意味など考えもせず、過去にしがみつき、未来に恐れを抱き、唯今を惰性で生きることにしか目を向けなくなってくる。支配する立場になればなるほど御託を並べ、偽善の正義感にその精神と肉体は支配される。そしてその体は朽ち果て、生まれた意味を何一つ残さず消えていく。


 生まれること自体に意味はないのかもしれない。生まれつく場所も性別も環境も自ら選択できるものではない。だからこそ死に意味を持たせなくてはいけないのだと思う。いや、厳密にいえば生き方に意味を持たせるのであって、死に意味を持たせてはいけないのかもしれない。生まれついたことに意味がない分、死に意味を持たせてしまってはその死に様だけに目が行きがちになってしまう。そうではなく生まれついたからにはその大小問わず意味を形として残さなければならないのだろう。


 自分の使命は何なのか、それを見出し意識しながら生きていくなどというのは口では簡単に言えるけれどもそんなにた易いことではないし、あったとしてもなかなか見つかるものではない。実行していくことなど実にいばらの道を歩くようなことかもしれない。ただこの世界それが出来るかできないではない。たぶん、やったかやらなかったの違い。やらない者はそれすら見出そうとせず惰性のまま終わる。不平を言い、御託を並べ、見えるものだけが全てになってゆく。どんなに平凡でもどんなに金持ちでもその人生の実りは格段に違ってくるはずである。


 俺自身、みんなのことを応援しているが、どんなに大変かは知りたくても全てを把握することは無理であるだろう。痛みを分け合うことなどそう簡単にできるものではないし、できるならやってると言っても過言ではないだろう。ただ自分が出来ることは友の支えになりたい気持ちがあることをただ伝えること、そして必要な時にはいつでもそばにいられるようにすることである。


 自分の苦難と友や家族の苦労が異なる分、その分かち合いはできるようで難しい。支えてくれる人たちの言葉の裏を読んだり、深読みしたり、自分の知らない出来事を知れば、友達という信頼があった分裏切られた気持ちになり、そして無力になっていく。自分がそうしたとしても棚にあげ、俯瞰になっていく自分にも気付かず。


 きっと力に臥し罵声を浴び立ち上がれなくなるくらいにぶつかった方が楽だと思うし、優しさにも憎しみにも惑わされないほどに突き放された方が楽に違いない。喜怒哀楽すら忘れるくらい罵られた方が踏ん切りつくと思うし、五感が支配されるほどに痛みを負った方が見切りが付く。そんなことばかり考える日々の連続だった。


 自分の置かれている境遇も自分のせいで起こったことじゃない事象と自分で選択決断した行動によって生まれた事象の組み合わせが現在である。前の環境に居場所を見出すのも嫌、新しい環境に飛び込むのも大変。そのどちらかの選択の中で自ら新天地を選んだ。それを世間は責任と呼ぶ。だからこそそれが逃亡でも転機でも、俺は遂行しなければならないのである。例えどんな苦労が待っていようとも、例えどんな敵が待っていようとも、例えどんなに時間がかかっても。


 前述した通りの世界なだけに取り巻く環境は実に羅刹ばかりである。使命感のあるかないかのような者が保身と犠牲で食いつなぐような社会である中で、使命感のあるのものはただただ輝きを手にしている。俺はもうどちらでもよい。惰性で生きることも嫌いではないし、出来る事なら輝きを手にしたいとも思う。ただこの積極善対消極悪の世界にうんざりしているのだ。自分がどんな使命感を見出すも見出さないも、結局のところ肯定するのも否定するもの自分であるからだ。そんなことならば、ただただこの現実に期待しても無駄である。どんな使命感と期待を得てもそれを生かすも殺すも自分次第なのだから。


 自分の選択によって生き方を決め、苦難に立ち向かい、意志も使命感も自分の手の中にあるなどと偉そうなことを言ってみても、そんな綺麗事を実現することなどた易いことでもなく、力もないし、若いながらに出来ないことも自分の力ではどうしようも出来ないことも多い。しかしだからこそ俺はうまくいかないからこそ遣り甲斐があるのだと思うようにしている。


 生まれついた環境をどうしようもできないからこそもがくのだ。でもそのもがく場所でさえもう一度見つめ直す必要があるのではないだろうか。人と比べて不幸だと言っているからこそ自分自身考えなくてはならない。天涯孤独に生まれついた人、家庭にも学校にも恵まれなかった人、追われている人、明日をも知れない命の人、報われない人、住むところも頼る人もない人、戦いの真っ只中にいる人、傷を負った人。おそらくその苦しみのない今の俺はきっと幸せなのかもしれない。


 何を見出さなきゃいけないか、その問いはたぶん死ぬまで続くだろう。でも自分が自分を認め、自分で選びとり歩いていくことが人生なのであって、どんなに苦難が待ち受け枯れたいばらの世界でも進んでいかなきゃいけないのだろう。使命感にしろ何にしろ簡単には見つからないし、苦難の連続に違いない。しかし肯定も否定も歩む道を決めるのも自分であるならば、分かってもらえなくてもいいという覚悟が出来る。


 俺は日々「あいつはよくやってる」だとか「全然だめだあいつは」などその言葉に一喜一憂しては結局のところ深く傷つくことの連続だった。しかし良い・悪いの評価も周りに振り回されず、結局のところ自分が自分のことを分かっていればそれだけでいいのだと思う。きっとそんなもんだと思う。


 使命感なんて見つからないかもしれないし、見つかっても本当に小さなものかもしれない。それでも何年後かに笑える人生ならばそれで。「俺の人生まあまあだったな」とか「捨てたもんじゃなかったな俺の人生も」なんて言えば、恍惚の中で安らかに死んでいける。


 どんな人生になるか分からないし、運命なんて必然でもう決まっているのかもしれない。そうじゃないかもしれない。ただ、そうやって生きるためにも周りの大人の言動に振り回されず、親や友人の思惑を深読みせず、焦らずこの目で自分の道を見極め、選択決断して歩んでいかなきゃいけないだよね・・・きっと。


 俺の中で大人や現実に輝きを見出すことに期待はしない。ただ忘れてはいけないのは、俺もその現実の中に生きているということ、そしてそんな大人というものなっていくということ。大切なのは自分が拒むような大人にだけはならず、自分の道を前を向いて自分を信じて歩んでいける人間になるということである。