今年のお花見は、山歩きにはもってこいの天気に恵まれて、母とゆったり穏やかな一日を過ごせました。
川沿いの桜も満開近くて、
花の写真撮るの難しいよねーって会話しながら、たまに立ち止まって写真撮りながら、目的地のお花見会場までのんびり歩く。
毎年お花見の時期は、街にぼんぼりが飾られてお花見会場には出店が並んで、子どもが走り回ったり大人は昼間からお酒でいい気分になってたり、たくさんのお花見客で賑わってる私の地元だけど、今年は、ぼんぼりも出店もなく、人もまばら。
この時はまだ緊急事態宣言は出されてなかったけど、こんな風景、初めて見た。
静かなお花見会場を歩きながら、
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず、やね」
と母。
「ん?マスターキートン?」
と私。
母は、子どもの頃祖父からこの言葉を聞いたことがあるらしい。
私がこの言葉を知ってるのは、多分、マスターキートンの中でキートン先生のお父さんが呟いてたからだ。いい言葉だなと思ってたけど、なるほど、元ネタがあったのね。
お花見会場は、桜の他にもツツジやリンドウなどたくさん見頃を迎えた花たちが溢れてて、母に花の名前を教えてもらいながら山道を散策。
リンドウかわいい。
山吹
「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」
昔、身分のある人が、雨に降られたから民家で蓑を借りようとしたけど、そこの住人は蓑じゃなくて山吹を差し出してきた。身分のある人は最初意味が分からなくてイラッとしたけど、後から、渡された山吹の意味に気付いて自分の無学を恥じた。という話があるのよと母が教えてくれた。
山吹は実をつけない花で有名で、上の古歌の「みのひとつだになきぞ」ってところが蓑とかけられてる、と。
つまり、住人が差し出した山吹にはお貸しできる蓑はありませんという意味が込められていたわけで、しかし古歌の存在を知らないとそんな意味まで辿り着けないわけで…。なんとまあ風情があるというか、奥ゆかしいというか、おしゃれというか。試されているというか。
むかしの人の和歌のやりとりもそうだけど、遠回しな表現というか、含みを持たせたり何かに例えたり解釈を相手に委ねたりして、お察し下さい、みたいな変化球の応酬、いいよね。わりと好き。
帰り道ちょっと遠回りして、子どもの頃親に連れられて行ってた公園に寄り道。いつぶりかな?少なくとも20年は来てなかったと思う。
当時遊んだ遊具も劣化しつつもいくつか残ってて、これといった思い出は思い出せないんだけど、楽しかった場所として記憶に残ってて、懐かしかった。
今年はいつもと違う雰囲気のお花見だったけど、のんびりしててこれはこれで良かった。
来年はどうかな、賑やかなお花見もできるといいな。