何もかも厭になっちまった。正直、厭だ。
ていうのも正直な身体の反応だと思う。明日の今頃は、恐らく僕はいつものように能天気で、かつ傍若無人だろうと思う。どっちが正しいってこともないし、間違いが起こったとしてもそれは身体から先のどうしようもないことだ。
正直な話、認めうる悪意というのはままあるし、肯んずることのできない善意というものもある。
それとまた別個に、無意識の荒みとでも表現しようのない、どうしようもなく不可逆的な衰えというものもある。
仕事柄ある「短歌人」という職業の人間、それも歌会始なんてのにも参加している人間の話を聞くことがあった。仕事上、であるからどうしても斜にみてしまいがちだし気分が良くないから、少し時間を置いて感想をひねり出そうとしてみた。
そうすると、どうしても「無意識の荒み」としかいえない内容なのである。或る道での大家であるからやっかみの気持ちも、ひねびた先入観というのももちろんある。仕事上知りえたというフィルターを通してもいる。しかし、つまらない。野暮である。腑に落ちない。伝わるものが何もない。
かれは地震によって「風景が一変してしまった」という何の修辞もないありきたりの表現をした。
文字通り素直に受け止めるならば、何となく感ずるところはあるのかもしれない。しかし僕は何も感じない。むしろ反駁する。変わったのは風景でない。風景を愛でる人間の「目」であり「鼻」であり「耳」であり感覚中枢の全てだとおもう。更にいえば何の反省もないままに通用させていた人間のロジックそのもの、それが「変化を迫られた」という解釈が絶対に正しい。
まるで、他人事の表現にしか聞こえないのである。やっこさんがテレビで見た、てんでデフォルメされた風景というものの裏には、ひとの絶命があったはずである。ひとの身体があったはずである。瓦礫に砕かれ破損した、身体があったはずである。「風景」というのは、ひとの身体を抜きにした都合の良い表現でしかない。
こういう人間だからやすやすと転向して歌会始の選者にも落ちぶれてしまうのかも知れない、と思う。
かれはその後も続けた、中野サンプラザ(後日かれはここで授賞式をむかえるわけだったから当然かもしれないが)の職員がとても真摯であったこと、不安は不安としてそのまま気持ちを詠みましょう、など。
どうにも彼には悪意というものはないようである。いや、全くないであろうと思う。むしろ彼は善意だと自分で解釈して話しているだろうとも思う。
そう考えると、彼がいう「風景」に恐らくは含まれている「無意識」というものがやはり、荒んでいるのだろうと思う。荒ませてしまったのだろうと思う。主語は、だれか。言うまでもなく彼を含む表現者たちであり、芸能を生業にしている人間たちである。恐らく誰もが、もちろん僕もが、それを支えてきてしまったのだろうし、これからも支えていってしまうのだろう。これはとりもなおさず胡散臭い「復興」のプロセスだし、そこでは意味の無い「絆」が主張され、いや強要される。
そんな中、本当にほっとする表現があった。辺見庸さんのひとことである。
恐らくは休憩時間中にビデオを回していたのだろう、ぶっきらぼうな口調でかれはこういった。
「自分の母親のように老い、死にたいと思っているもの。」
「自分が無価値だと感じ、死にたいと思っているもの。」
そういう人間を死なせちゃ、いけないよ。
そういう人間こそ、生かすべきだよ。
僕も後追いではあるけれども、本当にそうおもう。
復興よりも、まずは無意識を掘り起こすことがプライオリティなのではないか。
ていうのも正直な身体の反応だと思う。明日の今頃は、恐らく僕はいつものように能天気で、かつ傍若無人だろうと思う。どっちが正しいってこともないし、間違いが起こったとしてもそれは身体から先のどうしようもないことだ。
正直な話、認めうる悪意というのはままあるし、肯んずることのできない善意というものもある。
それとまた別個に、無意識の荒みとでも表現しようのない、どうしようもなく不可逆的な衰えというものもある。
仕事柄ある「短歌人」という職業の人間、それも歌会始なんてのにも参加している人間の話を聞くことがあった。仕事上、であるからどうしても斜にみてしまいがちだし気分が良くないから、少し時間を置いて感想をひねり出そうとしてみた。
そうすると、どうしても「無意識の荒み」としかいえない内容なのである。或る道での大家であるからやっかみの気持ちも、ひねびた先入観というのももちろんある。仕事上知りえたというフィルターを通してもいる。しかし、つまらない。野暮である。腑に落ちない。伝わるものが何もない。
かれは地震によって「風景が一変してしまった」という何の修辞もないありきたりの表現をした。
文字通り素直に受け止めるならば、何となく感ずるところはあるのかもしれない。しかし僕は何も感じない。むしろ反駁する。変わったのは風景でない。風景を愛でる人間の「目」であり「鼻」であり「耳」であり感覚中枢の全てだとおもう。更にいえば何の反省もないままに通用させていた人間のロジックそのもの、それが「変化を迫られた」という解釈が絶対に正しい。
まるで、他人事の表現にしか聞こえないのである。やっこさんがテレビで見た、てんでデフォルメされた風景というものの裏には、ひとの絶命があったはずである。ひとの身体があったはずである。瓦礫に砕かれ破損した、身体があったはずである。「風景」というのは、ひとの身体を抜きにした都合の良い表現でしかない。
こういう人間だからやすやすと転向して歌会始の選者にも落ちぶれてしまうのかも知れない、と思う。
かれはその後も続けた、中野サンプラザ(後日かれはここで授賞式をむかえるわけだったから当然かもしれないが)の職員がとても真摯であったこと、不安は不安としてそのまま気持ちを詠みましょう、など。
どうにも彼には悪意というものはないようである。いや、全くないであろうと思う。むしろ彼は善意だと自分で解釈して話しているだろうとも思う。
そう考えると、彼がいう「風景」に恐らくは含まれている「無意識」というものがやはり、荒んでいるのだろうと思う。荒ませてしまったのだろうと思う。主語は、だれか。言うまでもなく彼を含む表現者たちであり、芸能を生業にしている人間たちである。恐らく誰もが、もちろん僕もが、それを支えてきてしまったのだろうし、これからも支えていってしまうのだろう。これはとりもなおさず胡散臭い「復興」のプロセスだし、そこでは意味の無い「絆」が主張され、いや強要される。
そんな中、本当にほっとする表現があった。辺見庸さんのひとことである。
恐らくは休憩時間中にビデオを回していたのだろう、ぶっきらぼうな口調でかれはこういった。
「自分の母親のように老い、死にたいと思っているもの。」
「自分が無価値だと感じ、死にたいと思っているもの。」
そういう人間を死なせちゃ、いけないよ。
そういう人間こそ、生かすべきだよ。
僕も後追いではあるけれども、本当にそうおもう。
復興よりも、まずは無意識を掘り起こすことがプライオリティなのではないか。