精神的、経済的に誰かに依存せず生きる事が出来ると、ヒトはそこで初めて自由を手に入れられると思う。幸せの定義は人それぞれ。でも「自由である」(あらゆる状況で選択の余地がある)ということと、「しあわせである」ということは、密接に関連している。だから、私が娘に対して「幸せになって欲しい」と願うのは、「自立して欲しい」と願うことと似ている気がする。教育は、その自立を助けるための手段と考えている。あくまでひとつの、という意味で。
息子三人を灘から東大理3にいれたか入れる予定だかで有名になった教育ママの方針、私とは正反対だと思った。(批判するとかではなく)
彼女は、18になるまで子供は全て親の責任だからという方針のもと、宿題から生活の全てに至るまで、子供に干渉しまくる。あそこまで徹底して子供の面倒を見るのは、お見事、というしかない。
例えば、彼女の子供らは「おてつだい」を禁じられている。家事というものは母親の仕事。そんな事より勉強に集中して、という論理らしい。
「自立して欲しい」という事が、教育のゴールであると考える私にとって、「おてつだい」は最強の教育の機会だと思っている。自分でやったほうが早い、と思わずに、料理も掃除も片付けも洗濯物たたみも、ぜーんぶ手伝ってもらっている。
料理で、調味料や粉を計量することは数字の勉強になるし、野菜の皮むきをする事で手先も器用になる。自分で掃除がしやすい様に、部屋はどこになにをしまうかが分かりやすく決められていて、娘の手が届く大きさの収納を使っている。娘が何かをこぼしても自分で掃除ができる様に、子供サイズの掃除用具も彼女の手が届く場所に置いてある。そういう一つ一つが、教育であり、彼女が自立できる手助けであると思う。学力の前に、人間力があってこそだと思う。
ちなみに、この考えはモンテッソーリの影響がモロに入っている。我が子は、2年間私が専業主婦でみたあとは、モンテッソーリの園に2歳から通っている。はっきり言って素晴らしいの一言です。大学教育より、まず幼児教育にお金、労力をかけるべきだと私は思っていますが、それは、モンテッソーリ流子育てを学校でも家でもしていれば、どうにか自分で道を開く様な大人に成長していくから、と考えるからです。