「バッハ先生が開発した頭の良くなる薬です。」

 白衣を着た眼鏡が言った。ぼくのおんぼろアパートに3日前から住み着いている。彼は突然押しかけてきて

古ぼけた大きなカバンから様々な開発品を取り出しては説明を始めた。彼のカバンは昔の医者が往診に来るカバンを大きくしたようなものである。

「もううんざりです。あなたはぼくが大人しいからって言いたい放題ではないですか。でももうぼくは怒りました」

 眼鏡は目を丸くして驚いた。何十時間も黙ってうつむいていたぼくが声を荒げるそぶりを見せたからだと思う。精神的な疲れと窶れが眠っていたぼくの魂の叫びを呼びを起こした。トイレには行ったが眠ることを許されないマシンガントークに発狂寸前だったが、眼鏡はそんなそぶりはない。むしろきたときより肌がつややかで戯れた後の乙女のように上気している。傍らには栄養ドリンクの個性派タイプといえる空瓶が4本無造作に置かれている。その中の一本が倒れているのがぼくの神経の集中する先で、いやらしく神経を逆なでし続けた。

【そういえば眼鏡はつばをちらかすだけ散らした後あのドリンクを飲んでたっけ】

 ぼくは途切れそうな意識のカイロを手放さないように思考した。

【バッハ先生というのはそんなに偉いのだろうか。】

 頭は昔の中国軍のもっとスマートな洗脳法を勝手に思い浮かべ始めていた。ちくしょう、ぼくの思考を無視して勝手に動くんじゃねえぞ、コノヤロウ。

「その・・・空き瓶はなんです?それには少し興味が沸いて来ました」

 眼鏡は急に白けた。目はうつろになり、色気を見せつけようとする熟女のように体が気だるい感じになった。 

「大体、バッハ先生というのはなんです?ぼくはそんな怪しいものをインターネットで沢山調べたことがあるんですよ!絶対にだまされませんよ!」

 栄養ドリンクへの興味を突然否定したくなった。

「あなたねえ、そうやって畳み掛けるように私にはなしかけないでくださいよ!こっちは3日もあなたなんかのために貴重な時間を費やしているんですよ!」

 ぼくはカチンときた。この眼鏡、生意気だぞ。更に眼鏡は追い討ちをかけた。

「その眼鏡も素敵ですね!」

 ああ、何てことだ、あいつ、ぼくのことを眼鏡と心のなかで呼んでいるに違いない!ぼくが眼鏡であいつが眼鏡。いいザマだな。

「いい加減疲れてきましたよ、そのドリンクを一本下されば、ぼくはバッハ先生の商品一つ買いましょう、何ですっけ?その頭の良くなるとか言う薬」

 眼鏡の眼鏡の奥の白けた目がぼくの眼鏡の奥の目を縛り付ける。

【なんて恐ろしく白けた目だろう】


 手元に残った薬。バッハ先生の開発した頭の良くなる薬。ぼくは東大生なのに、愚かな頭の妄想が強度になっていらい家を出る気力がなくなってしまっていた。気休めになればいいだろう。何か馬鹿げたことに身をゆだねたいのだ。研ぎ澄まされた理性がいつの間にか狂人になることだってあるんだ。だからぼくは神経を集中して間抜けな儀式に身をゆだねるべきだと思う。いや、それこそが人間の自然な姿で真理である。素晴らしい生きるための才能。生まれ持った本能。


ゴクリ。


 一本貰った栄養ドリンクで流し込む。喉が熱い。大きいカプセルと錠剤が3粒ほど。流し込めなくて喉にカプセルの膜がくっついて焼けるようにモヤモヤしている。安全性の保証などこれっぽっちもないものを体内に流し込んでしまったことに気付いた。更に水を流し込み、そのまま後ずさりし、万年床にばたりと転がった。うとうとと眠りに落ちながら火星人と話をしていた。

【火星年代記の火星に火星人はいたっけ?幽霊だっけ?】


 夢の中でぼくは宇宙の果てへ向った。大体宇宙を描いた作品というやつは果ての果てに行ったって幻覚の果てにたどり着けばいいほうで、ぼくの見たのもそんな感じ。支配する人間臭さ。(確かに人間臭さから乖離してしまえば作品として成立しないだろうが。)迫り来る映像にぼくは冷静だった。あの眼鏡のシラケがぼくに乗り移ったように。宇宙の果てを真剣に考えるなんて暇人か強迫観念でやること。白けた態度でこの宇宙船、もしく神懸った能力から降りてやる。地球に帰るんだ。


 脳が熱い。正確に言えば脳にそんな感覚はないはずだが、頭痛ではなく・・・それよりも驚くのは脳の自我ともいえる感覚が世界中と繋がった感じだ。ぼくは誰でもない、眼鏡とぼくは一つで、宇宙の果ても一つで、この部屋の感覚もぼくの中にある。『自分とそれ以外』を分けるために言葉が生まれたとすれば、今のぼくに必要なのは隅々に行き渡らせることのできる感性だ。言葉など要らない。研ぎ澄ました神経。神経など・・・・。神経の塊・・・・・縛り付ける神経・・・・。主観。全て。



 鏡と呼ばれるもの。映る自分・・・?解剖図でみた脳の感覚・・・・。鏡は・・・なかった。意識で感じる自分。いや、見ようとして見えるもの。全て。







「こんにちは。忘れ物を取りに来ました」

「なんだ?この感じの悪い脳みそのおもちゃは!気持ちが悪い!」

「なんといういやらしさ!脳に大動脈がビッシリ生えたようななんていやらしい趣味だ!」

「まさかあのやたらオレの酒を欲しがった気味の悪い阿保眼鏡が、オレの調合したインチキ薬でも飲んで体が解けちまったのか?ぶはははは」






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