中学の時

現代国語の教科書に載っていた

石垣りんさんの

私の前にある鍋とお釜と燃える火と

なぜだかずーっと私の胸にある

詩の読解とかあまり好きじゃなかったのに

よほど印象に残る授業だったのかな?

それは定かじゃないけれど、、、







私の前にある鍋とお釜と燃える火と       石垣りん


それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの

自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た

その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり

台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた

ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿

炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう

それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように














それはおごりや栄達のためでなく

全部が

人間のために供せられるように

全部が愛情の対象あって励むように











この一節がふとした時に思い浮かぶのよあせる


ジュニア・ハイ・スクールのあの時から

私の人生の道しるべみたいなものだったように思う

時代の流れと共に

私の目の前にある鍋やお釜は

電子レンジに

燃える火はIHクッキングヒーターに

姿を変えたけれど

心に奥深く刻まれた道しるべは変わる事は無い