■フランク王国史 | sweet-insomnia-2017のブログ

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■カロリング朝

★中フランク王国



★東フランク王国



★西フランク王国














 





■フランケン朝

★コンラート1世

東フランク王/初期ドイツ王

フランケン貴族であるコンラディン家/コンラート家は
テューリンゲンのラーンガウ伯ゲープハルトを始祖とし
ゲープハルトの子オードと続いて世襲した家系である。

父はウド/ウド2世の子でラーンガウ伯コンラート/大コンラート
母は東フランク王アルヌルフの娘グリスムート/グリスモント/グロスモント。

弟はフランケン公エーバーハルト3世、ラーンガウ伯オットー。

911年、母方の叔父ルートヴィヒ4世の死で東フランクのカロリング家が断絶

911年11月、フォルヒハイムでザクセン公オットー1世および
マインツ大司教ハットーの推挙により貴族による選挙で王に選ばれた。

カロリング家断絶をもって東フランク王国の終焉とする場合、
コンラート1世の即位をもってドイツ王国の成立とする。
王国が実際に「ドイツ王国」と呼ばれ出すのは約300年後。

王を選挙で決めるのはゲルマンの風習で小ピピンやルヌルフの例がある。
即位後よりザクセン公を始めとする部族大公と対立したが
コンラート1世自身はロートリンゲンを西フランクに奪われて統制勢力を弱めた。

913年、ルイトポルト家:バイエルン公アルヌルフおよび
伯父シュヴァーベン宮中伯エルハンガーの両者との同盟をはかり
アルヌルフの母でエルハンガーの妹にあたるクニグンデと結婚したが、
シュヴァーベン宮中伯エルハンガーと弟ベルヒトルトとは後に対立し、
コンラートは917年1月に二人を処刑した。

同年、エルハンガーを支持してハンガリーに亡命していた
バイエルン公アルヌルフがバイエルンに帰国したため、
軍を率いて討伐に向かったが負傷しフランケンに戻った。

918年、死の床で王国の分裂を防ぐために
宿敵のザクセン公ハインリヒ1世:リウドルフィング家を後継者に指名
フルダにて37歳で没しフルダ修道院に葬られた。

彼には嗣子がおらず末弟ラーンガウ伯オットーも同年に亡くなり
コンラディン家は弟エーバーハルト3世が相続した。

エーバーハルト3世も939年に反乱を起こして戦死。
コンラディン家はフランケン公の地位を失った。

コンラート1世の娘婿、もしくは妹の子がザーリアー家の
ヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世であり
子孫がザーリアー朝として後に国王およびローマ皇帝を世襲した。


■ザクセン朝

★ハインリヒ1世

東フランク王/初期ドイツ王

父はザクセン人の部族大公でリウドルフィング家のオットー貴顕公
母はバーベンベルク家のオストマルク東方辺境伯ハインリヒの娘ハトヴィヒ。

父はザクセン地方の東ザクセン(現ザクセン=アンハルト州西部)に
勢力基盤を有していた。

母方のバーベンベルク家はフランケンにおける主導権をめぐりテューリンゲンの
ラーンガウ伯のコンラディン家(コンラート家)と抗争を続けていたが
906年に決定的な敗北をしフランケン大公位はコンラディン家の
コンラート(小コンラート、後の東フランク王コンラート1世若王)が確保
バーベンベルク家は衰退しオーストリア公のみ確保した。

906年、ハインリヒは東ザクセンのメルゼブルクの伯エルヴィンの娘
ハーテブルクと最初の結婚をしメルゼブルクを含む莫大な嫁資を得た。

2人の間には長男タンクマールが誕生したが
最初の夫と死別し修道院に入っていたハーテブルクとの結婚には
もともと教会の反対があり、ハインリヒは909年にハーテブルクと離婚した。
ハーテブルクの嫁資はタンクマールに相続させるとして返還しなかった。

ハインリヒは同年、ウィドゥキントを祖とするイメディング家出身で
西ザクセン(ヴェストファーレン)の伯ディートリヒの娘マティルデと再婚。

ハインリヒはマティルデの美しさに魅せられハーテブルクを修道院に
放り込んだと言われる。この婚姻によりハインリヒは北ドイツ中枢部における
権力基盤を固めることになった。2人の間には3男2女が生まれる。

911年9月24日、東フランク王国のカロリング朝最後の王
ルートヴィヒ4世が嗣子を残さず死去したため
11月10日に東フランク王国の有力貴族らは新しい王として
フランケン公コンラート1世を選出した。

オットーとハインリヒ父子が率いるザクセン人もコンラートの即位自体には
賛成したが服従することを拒絶しテューリンゲンにおける領有権をめぐって
フランケン人との間で武力衝突が続いた。

912年11月30日、父オットーが死去しハインリヒは公位を継承するが、
東フランク王コンラート1世はこれを承認しなかった。

両者の間での紛争は続きハインリヒは東フランク王国からの
ザクセン独立の動きも見せた。

915年にゲッティンゲン近郊のグローナ城において和平協定が結ばれる。

ハインリヒは国王から正式に公位継承を認められ
ザクセン(テューリンゲンを含む)における国王の権力行使が
名目的なものに留まることの確約を得た。

918年12月23日に国王コンラートが死去した後、ハインリヒは
コンラート1世の弟エーバーハルト3世から帝国権標を受け取った。

コンラート1世の遺言にもとづくもので国内最強の大公である
ハインリヒを次の王として推挙する意思の表明を意味した。

919年5月、フランケンとザクセンの貴族がフリッツラーに集まり、
先王の遺言通りハインリヒを新国王として選出した。

国王はフランク人からという伝統に反し初めてザクセン人である
ハインリヒが新国王となることで東フランク王国は大きな節目を迎え
ドイツ王国の成立へと向かっていくこととなる。

ハインリヒは919年に即位式を行うが高位聖職者マインツ大司教ヘリガーによる
塗油を拒絶した。即位式における塗油はカロリング朝のピピン3世(小ピピン)の
即位式以来の伝統で、地上における統治権を神から授かることの
象徴的行為とみなされてきた。

ハインリヒの次以降の王は即位式における塗油を行っており
彼だけがなぜ行わなかったのかは議論の対象となっている。

ハインリヒの国王即位についてシュヴァーベンとバイエルンの両部族は
国王選出には参加しなかった。バイエルンにおいてはバイエルン公アルヌルフを
対立王として選出した。

ハインリヒは919年にシュヴァーベン公ブルヒャルト2世から
戦わずして臣従の誓いを勝ち取り、921年にバイエルン公アルヌルフを降し、
両者から国王として承認を得た。

921年、西フランク王シャルル単純王との間でボンにおいて条約を締結し、
その中でハインリヒは「東フランク人の王」として公式に承認された。

ロートリンゲン公領は東フランク王国におけるカロリング朝が断絶した時点で、
西フランク王国のカロリング朝君主であるシャルル単純王を国王として選択し、
東フランクから西フランクへと帰属を変えていた。

ハインリヒは923年にロートリンゲンへ軍を進めたものの
このときはあえなく撃退され、925年に再度進撃して
ようやくロートリンゲンを再び東フランクへと取り戻すことに成功した。

928年にロートリンゲンの有力貴族ギゼルベルトをロートリンゲン公に任命し、
娘ゲルベルガを嫁がせた。

東フランク王国(ドイツ王国)はフランケン、ザクセン、シュヴァーベン、
バイエルン、ロートリンゲンの5つの公領で構成されることとなった。


■ザーリアー朝

1024年 - 1039年 ① コンラート2世
1039年 - 1056年 ② ハインリヒ3世
1056年 - 1106年 ③ ハインリヒ4世
1087年 - 1098年 ④ コンラート
1106年 - 1125年 ⑤ ハインリヒ5世

ザーリアー家は北イタリアでスポレート公となり皇帝も出したヴィドー家と
起源を同じくするカロリング朝の帝国貴族を先祖にもつと考えられている。

一族で最初に確実に確認できるのがヴォルムスガウ、ナーエガウおよび
シュパイアーガウ伯のヴェルナー(5世)でありドイツ王コンラート1世の妹
もしくは娘と結婚したとされている。

ヴェルナーの息子コンラート(赤公)は、944年にオットー1世(大帝)から
ロートリンゲン大公位を与えられ、947年には大帝の娘リウトガルトと結婚した。

953年に大帝の息子で義兄のシュヴァーベン大公リウドルフが大帝に対して
反乱を起こした際、コンラートもリウドルフに加担した結果、
コンラートはロートリンゲン大公位を剥奪され
大帝の弟ケルン大司教ブルーノに与えられた。

コンラートは955年にレヒフェルトの戦いにおいて
岳父である大帝の救援に駆けつけ戦死した。

コンラートとリウトガルトの息子で後を継いだオットー1世は、
978年に母方の叔父に当たる皇帝オットー2世が反乱を起こした
自分の従兄バイエルン公ハインリヒ2世から没収したケルンテンを与えられた。

985年にハインリヒ2世は以前の地位と領土に復帰し、
それまでバイエルン公位を保持していたルイトポルト家の
ハインリヒ3世にケルンテン公位が与えられることとなった。

ケルンテンを失ったオットー1世は代わりにライン川上流域左岸の
豊かな領土と支配権を与えられ、これにより同家の家領は拡大した。

995年にハインリヒ2世が死亡した際にケルンテン公位に復位している。

1002年、皇帝オットー3世が男子なく没した際に、
オットー1世は皇帝オットー3世の従兄かつ大帝の孫であることから、
後継候補の1人として名乗りをあげたが後に候補から退いている。

ドイツ王位はハインリヒ2世の息子のバイエルン公ハインリヒ4世が
皇帝ハインリヒ2世として継いだ。

オットー1世には4人の息子がいたが長男ハインリヒは
息子コンラートを残し父に先立って死去、
ケルンテン公位は3男コンラートが継いだ。

次男ブルーノは聖職に就き
996年にはローマ教皇グレゴリウス5世となっている。

1024年、皇帝ハインリヒ2世は継嗣なく没し
 同年9月4日、ドイツ聖俗諸侯は全員一致で
オットー1世の孫コンラート2世を国王に選出した。

以降、同家が約100年にわたりザーリアー朝として
ローマ王およびローマ皇帝を世襲した。

1125年5月23日、皇帝ハインリヒ5世が嗣子なく没し同家は断絶した。

ハインリヒ5世は甥で姉アグネスの子シュタウフェン家の
シュヴァーベン公フリードリヒ2世を後継者として希望していたが、
ドイツ王にはズップリンブルク家のザクセン公ロタールが選ばれた。

嗣子のなかったロタール3世の死後、
シュヴァーベン公フリードリヒ2世の弟のコンラート3世がドイツ王として即位し、
ホーエンシュタウフェン朝として1254年まで続いた。


■ズップリンブルク家

1125年 - 1137年 ① ロタール3世

ズップリンブルク家は1021年以降、ザクセン公領内のハルツガウ伯を世襲した。

ズップリンブルク伯兼ハルツガウ伯のゲープハルトは
皇帝ハインリヒ4世に対し他のザクセン貴族とともに反乱を起こし、
1075年のランゲンザルツァの戦いで戦死した。

息子ロタール(ロタール3世)は相続と婚姻により領土を拡大し、
1105年にハインリヒ5世が父皇帝ハインリヒ4世に反逆した際、
ハインリヒ5世に協力したことにより1106年ザクセン公位を与えられた。

1112年以降、ロタールはザクセンの反皇帝派の指導的立場に立ち、
皇帝側を圧倒した。

ロタールはザクセンを完全に支配下に置き、
ザクセン内への皇帝権力の関与を許さなかった。

1125年、皇帝ハインリヒ5世は継嗣なく没した。

同年開かれた国王選挙のための集会は紛糾したが、
ロタールがドイツ王に選出された。

1133年にはローマから追われていた教皇インノケンティウス2世を復帰させ、
9月13日アーヘンでローマ皇帝の冠を受けた。

国王の後継の座を争ったシュタウフェン家とは
1135年の和解に至るまで国王領の支配をめぐって争っている。

ロタール3世には息子がおらず、1127年にヴェルフ家の
バイエルン公ハインリヒ傲慢公を一人娘ゲルトルートと
結婚させた上で後継者とし王権の拡大を図った。

1137年12月4日、ロタール3世は南イタリアからの帰還の途上死去し、
ズップリンブルク家の男系は断絶した。

ロタール3世の死後、シュタウフェン家のコンラート3世がドイツ王として即位し、
ホーエンシュタウフェン朝を開いた。

女婿ハインリヒ傲慢公はザクセン公領を継いだが、
1138年にコンラート3世によりバイエルン公領ともども剥奪された。

ゲルトルートとハインリヒ傲慢公との間にはハインリヒ獅子公が生まれ、
ザクセン公位およびバイエルン公位は後にハインリヒ獅子公に授封されている。
その子オットー4世は1209年にローマ皇帝となった。


■ホーエンシュタウフェン朝

1138年 - 1152年 ① コンラート3世
1152年 - 1190年 ② フリードリヒ1世
1190年 - 1197年 ③ ハインリヒ6世
1198年 - 1208年 ④ フィリップ
1215年 - 1250年 ⑤ フリードリヒ2世
1216年 - 1235年 ⑥ ハインリヒ7世
1250年 - 1254年 ⑦ コンラート4世

<シチリア国王>

① エンリーコ=神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世
② コスタンツァ=オートヴィル家王女
③ フェデリーコ2世=神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世
④ コッラード=神聖ローマ皇帝コンラート4世
⑤ コッラディーノ
⑥ マンフレーディ

ホーエンシュタウフェン家はアラマンニ人の有力貴族で
ビューレン伯として統治していた。

1079年、ザーリアー朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は
ホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ1世に娘アグネスを娶わせ、
シュヴァーベン大公に任命した。

これは既にシュヴァーベン大公だったルドルフ・フォン・ラインフェルデンが
対立王としてハインリヒ4世と衝突していたための措置だったが、
フリードリヒ1世はラインフェルデン家の断絶後も
ツェーリンゲン家のベルトルト2世と戦い
1098年の和睦で単独のシュヴァーベン大公と認められた
(ベルトルト2世はツェーリンゲン大公を称した)。

アグネスとの間の息子フリードリヒ2世、コンラート3世兄弟は
ザーリアー朝断絶後の帝位継承を巡ってズップリンブルク家の
皇帝ロタール3世と衝突したが1135年に和睦している。

1137年にロタール3世が嗣子がなく死去したため、
選帝侯たちはコブレンツにて1138年3月7日、次の皇帝選挙を行なった。

ロタール3世は後継者に婿でヴェルフ家出身のハインリヒ傲岸公を望んでいたが、
投票ではホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が最多票を得て、
新たなローマ王(ドイツ王)として選出された。

傲岸公はバイエルン公とザクセン公を兼ねていたため、
選帝侯達が強力な皇帝の出現を望まず、
当時としては弱小勢力に過ぎなかったコンラート3世が
新たな君主として選ばれたからである。

ローマ教皇から戴冠式は受けられなかったので、
コンラート3世は正式な皇帝に即位することなく終わっている。

1147年、コンラート3世はローマ教皇エウゲニウス3世の命を受けて
第2回十字軍に参加しダマスカスを包囲したが
イスラム軍との戦いに敗れて命からがら撤退している。

傲岸公とも神聖ローマ帝国の君主の地位をめぐって争うなど、
その治世は多難を極めた。しかしコンラート3世は皇帝権力の強化、
傲岸公の捕縛、ホーエンシュタウフェン家の領土拡大に成功を収め、
巧みな外交戦略をもってドイツ諸侯と提携を図るなどしている。

1152年、病に倒れて死を悟ったコンラート3世は、
兄フリードリヒ2世の息子フリードリヒ1世を後継者として指名し世を去った。

コンラート3世には息子がいたが、甥のフリードリヒ1世の能力を
高く評価していたため、あえて後継者として指名したのである。

★フリードリヒ1世の治世

赤みを帯びた髭を持っていたためバルバロッサ(赤髭王)と呼ばれた
フリードリヒ1世は、コンラート3世が見込んだ通り優秀な人物であった。

帝国の内部を安定させるためドイツ諸侯に大幅な特権を認め、
優秀な人材を登用して平和令を公布するなどして国を比較的に安定化させた。

フリードリヒ1世はイタリアに5度も遠征する。
歴代の神聖ローマ皇帝が行ったイタリア政策を踏襲し、
これを成功させることで皇帝権力のいっそうの強化を目指したのである。

このため、ローマ教皇やフリードリヒ1世に支配されることを嫌った
イタリア北部の都市と対立・抗争を繰り広げることとなる。

報復として1162年にフリードリヒ1世はミラノを破壊したが、
これに教皇アレクサンデル3世は激怒して1165年にフリードリヒ1世を破門する。

1168年にはイタリア北部の都市が集結したロンバルディア同盟の抵抗に遭う。

1174年からは国内においてもフリードリヒ1世のイタリア政策に
批判的な意見も上がるようになり、1176年に「レリャーノの戦い」で
ロンバルディア同盟に大敗すると、事実上フリードリヒ1世のイタリア政策は失敗し、
1183年にロンバルディア同盟の自治を認めることで和睦した。

その後はバイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ獅子公(傲岸公の息子)の
帝国追放などドイツの安定に努めた。

1189年、第3回十字軍の総司令官として
イングランド王リチャード1世・フランス王フィリップ2世と共に遠征し、
1190年にはイコニウムの戦いでアイユーブ朝を中心としたイスラム軍を破ったが、
同年6月にキリキアのサレフ河で渡河中に落馬し溺死してしまった。

★ハインリヒ6世と死後の混乱

フリードリヒ1世の死後は子のハインリヒ6世が後を継いだ。

ハインリヒ6世は妻がシチリア王女コスタンツァであったことから、
シチリア王グリエルモ2世の死後、シチリア王位を狙った。

これに対してグリエルモ2世の後を継いだタンクレーディは
リチャード1世やローマ教皇、反ハインリヒ的なドイツ諸侯と連合して対抗した。

このため一時ハインリヒ6世は危機に陥ったが、
フランス王フィリップ2世(尊厳王)と連合することでこれに対抗し、
1192年には十字軍から帰国途中にあったリチャード1世を逮捕した。

1194年にタンクレーディが死去して幼いグリエルモ3世が後を継いだなどの
諸事情もあって、ハインリヒ6世は優位となり、
遂にシチリアに遠征して同地を征服し、シチリア王として即位した。

ハインリヒ6世は、当時弱体化していた東ローマ帝国の征服にも乗り出し、
1197年には遠征準備に入ったが、同年のうちに急死してしまった。
有能な皇帝であったが、あまりに若すぎる33歳の死であった。

ハインリヒ6世の若すぎる死は帝国に混乱をもたらした。

ハインリヒ6世にはコスタンツァとの間に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がいたが、
3歳の幼少であったために父の後を継ぐことができず皇位は空位となってしまった。

このため、次の皇位をめぐってハインリヒ6世の弟フィリップと
ヴェルフ家のオットー4世(ハインリヒ獅子公の子)との間で
皇位をめぐっての争いが起こる。

この皇位争いにはフィリップが勝利したが、
1208年に娘との結婚を反対されたヴィッテルスバッハ家の
バイエルン宮中伯オットー8世に暗殺された。

その後、皇位はヴェルフェン朝のオットー4世の手に渡り、
ホーエンシュタウフェン朝は一時的に歴史の表舞台から姿を消した。

★フリードリヒ2世の治世と死後

しかしハインリヒ6世の忘れ形見であるフリードリヒ2世が成長し、
オットー4世がイタリア政策に失敗し教皇インノケンティウス3世から破門、
ブーヴィーヌの戦いでフィリップ2世に敗れるなどして
ドイツ諸侯の支持を失ったため、1215年にオットー4世が廃された後、
フリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝として即位することとなり、
ホーエンシュタウフェン朝が復活した。

フリードリヒ2世は国内の安定化のために諸侯の特権を承認する。

イタリア政策に力を注いだが教皇グレゴリウス9世と対立して、
1227年に破門されてしまう。

破門皇帝の身でありながら、1228年には第6回十字軍の総司令官として
シリアに遠征する。

当時、アイユーブ朝のスルタン・アル=カーミル(サラディンの甥)は
国内での内紛などの諸事情もあって、
フリードリヒ2世の軍と戦っているような余裕がなく、
交渉によって聖地エルサレムをフリードリヒ2世に譲渡することで和睦した。

フリードリヒ2世は、多くの犠牲者を出して争ったエルサレム奪回を
無血で果たしたのである。これは現在においても高く評価されている。

ローマ教皇はフリードリヒ2世のイタリア政策を嫌って、
シチリア国民や彼の長男でドイツ王のハインリヒを煽動して反乱を起こさせた。

これに対しフリードリヒ2世は、ハインリヒの造反を鎮圧し、
シチリアの反乱を鎮圧したが、
今度はイタリア北部のロンバルディア同盟の抵抗に遭う。

フリードリヒ2世は同盟軍とたびたび戦ってこれを破ったが、
決定的な勝利を得ることなくして1250年、55歳で死去した。

フリードリヒ2世の死後、次男コンラート4世が後を継いだが在位4年で死去した。

幼い息子のコッラディーノや末弟のマンフレーディもローマ教皇と争い、
その支持を受けたシャルル・ダンジューによって滅ぼされた。

1272年にフリードリヒ2世の庶子エンツォが嗣子のないまま
ボローニャで獄死したため、ホーエンシュタウフェン朝の男系は断絶し、
神聖ローマ帝国は大空位時代を迎えることとなった。

シチリア王国については、シャルルは1282年のシチリア晩祷戦争で
シチリア島を失い、マンフレーディの娘コスタンツァと結婚していた
アラゴン王ペドロ3世に奪われ、シチリア王国とナポリ王国に2分された。
再統一は1504年までかかることになる。