■『ブルゴーニュ戦争』
15世紀にヴァロワ家分枝のブルゴーニュ公と宗家フランス王の間で戦われた
一連の戦争。後にスイス盟約者団(Alte Eidgenossenschaft)も巻き込まれたが、
スイスはこの戦争で決定的な役割を演じることになった。
1474年に開戦しブルゴーニュ公シャルル突進公は「ナンシーの戦い」で戦死した。
ブルゴーニュ公の本領とその他の公領はフランスに併合されたが、
ネーデルラントとフランシュ=コンテ(ブルゴーニュ自由伯領)は
シャルルの娘マリーが相続し最終的にはハプスブルク家の所領になった。
★背景
ブルゴーニュ公国はハプスブルク家とフランス王国が支配を確立するまで
約100年以上にわたり繁栄し続けていた。
公国は本拠地のフランシュ=コンテとブルゴーニュ公領の他にフランドルや
ブラバント、ルクセンブルクといった経済力のある低地諸国を有していた。
ブルゴーニュ公は拡張政策を採り特にアルザスとロレーヌの獲得に対して積極的で、
地理的に南北に離れた領地を1つにしようと目論んでいた。
「百年戦争」ではブルゴーニュ公はイングランド側についており、
フランス王とは既に対立していた。
シャルルのライン川沿いへの進出はハプスブルク家、
特に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世との争いの原因になった。
★対立
1469年、チロル領主ジークムント大公はシャルル突進公と共に
スイスの拡大を防ぐためアルザスにある自分の領地を抵当として
ブルゴーニュ公に譲渡した。
シャルルのライン川西岸との関係はジークムントが望んだように
スイスを攻撃する動機とはならなかった。
シャルルはバーゼルやストラスブール、ミュルーズなどの都市に対抗して、
通商の禁止を代官ペーター・フォン・ハーゲンバッハ(Peter von Hagenbach)に
行なわせた。
ハーゲンバッハは圧政を布いたためブルゴーニュに対する都市の住民の反感は
強いものになり都市はベルンに救援を求めた。
シャルルの拡張戦略は1473年~1474年にかけて行なわれた
ケルン大司教に対する攻撃、「ノイス包囲戦」の失敗で初めて挫折した。
1474年、ジークムントはスイスとの和平を画策し
コンスタンツで後に「永久協定(Ewige Richtung)」と呼ばれる協定を結んだ。
ジークムントはシャルルに譲渡した領地を買い戻そうとしたが拒絶された。
同年4月30日、アルザスのブリザックで反ブルゴーニュ派に捕えられた
ハーゲンバッハが斬首刑に処された。
アルザスやスイスの都市とジークムントは結束して「対ブルゴーニュ同盟」を結び、
同年11月13日「エリクールの戦い(Schlacht bei Héricourt)」で勝利し、
フランシュ=コンテのジュラを征服した。
翌1475年にはベルン軍がシャルルと同盟関係にあったサヴォイア公国の
ヴォー地方を征服して破壊した。
ヴァレーでは1475年11月、「プランタの戦い(Schlacht auf der Planta)」で
独立共和国ジーベン・ゼンデンが、ベルン軍や他の同盟国の助力により
サヴォイア人を低地ヴァレーから駆逐した。
1476年3月、シャルルは報復のためにサヴォイアのピエール・ド・ロモンの領地
グランソン(Grandson)へ進軍した。
そこは同年1月にブルゴーニュ軍が攻略した際に
投降したスイス兵を見せしめのため絞首刑、湖で溺死させた因縁の地だった。
スイス同盟軍が数日後に同地に到着し、
シャルルは「グランソンの戦い」で手痛い敗北を喫した。
彼は戦場から逃げざるを得なくなり大砲や多くの糧食や財宝を残して撤退した。
新たに軍を再編成したがシャルルは再び「ムルテンの戦い」でスイス軍に敗北した。
1477年、シャルルは「ナンシーの戦い」でロレーヌ公ルネ2世が率いるロレーヌ軍と
彼に従うスイス兵と交戦し戦死した。
★戦後
シャルルの死でブルゴーニュ公家(ヴァロワ=ブルゴーニュ家)の男子は途絶えた。
低地諸国は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と
シャルルの一人娘マリーとの結婚によりマリーの死後、ハプスブルク家領となった。
ブルゴーニュ公領はルイ11世の治めるフランスに帰属した。
フランシュ=コンテもフランスに併合されたが、1493年のサンリスの和議で
フランス王シャルル8世からマクシミリアン1世の息子フィリップ美公へ譲渡された。
これはシャルル8世のイタリア侵略に際して
マクシミリアン1世に中立の立場を保たせるための買収工作だった。
当時ヨーロッパ最強と謳われたブルゴーニュ軍に勝利したことで、
スイス軍はほぼ無敵であるという名声を得た。
ヨーロッパ各地で槍兵こそが用いるべき歩兵だと考えられるようになり、
フランドルの槍兵とドイツ諸都市の歩兵がスイスを模範として改良され、
フランス軍でさえスイスと国境を接する山間の谷から槍兵を採用しようとした。
そしてスイス兵は15世紀末で第一級の傭兵と認識されるようになった。
■マルグリット・ドートリッシュ:年表
★1482年12月23日:『アラスの和約』
マクシミリアン1世はルイ11世によるブルゴーニュ公領(本領)とピカルディ地方の
取得を認め、娘マルグリット・ドートリッシュをルイ11世の子シャルル8世と婚約させ、
娘の婚資としてアルトワ、フランシュ=コンテをシャルル8世に与えることを認める
★1491年12月6日:
シャルル8世、マクシミリアン1世の抗議にも拘らず、
娘マルグリット・ドートリッシュとの婚約を破棄した上、
1490年マクシミリアン1世が代理人誓約の形で結婚した相手の
アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を強行しブルターニュ公領を事実上併合。
シャルル8世は婚約破棄と結婚へのインノケンティウス8世の特別認可を得ることに難渋。
以後、姉アンヌ・ド・フランスの摂政(1483年~1491年)を排し親政を始める。
★1493年5月23日:『サンリス協定:Treaty of Senlis』
シャルル8世、イタリア侵攻態勢を固めるべくマクシミリアン1世と
フランス中北部サンリスで協定を結びマクシミリアン1世の娘
マルグリット・ドートリッシュとの婚約破棄(1491年)に関連して
婚資のアルトワ、フランシュ=コンテをマクシミリアン1世に返還。
★1497年4月:
マクシミリアン1世の娘マルグリット・ドートリッシュとフェルディナンド・ダラゴーナ、
イサベル1世・デ・トラスタマラの子フアン・ダラゴーナ(1478年~1497年)結婚。
数ヵ月後フアン・ダラゴーナ死。
前年に続く政略結婚によってマクシミリアン1世は家領を拡大し
ハプスブルク家の基盤を固め続ける。
★1508年12月10日:『カンブレー同盟』
ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、
それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、
宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、
表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルディナンド・ダラゴーナ、イングランド王ヘンリー7世、
ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、
マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。
ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
★1515年3月~4月:『イタリア侵攻』
ミラノ奪還を企図して軍を大幅に増強、結集しながら
1515年3月24日、叔母マルグリット・ドートリッシュの後見を排して独立した
ネーデルラントの君主カール5世(在位:1506~)と4月5日、
ヘンリー8世とそれぞれ協定して背後を固める。
★1529年7月7日
カール5世の叔母、かつての後見人マルグリット・ドートリッシュ
(1480年~1530年:ネーデルラント総督在位:1507年~1515年、1519年~1530年)と
フランソワ1世の母ルイーザ・ディ・サヴォイアがカンブレーに着き直ちに和平交渉に入る。
★1529年8月5日:『カンブレーの和(貴婦人の和)』
マルグリット・ドートリッシュとルイーザ・ディ・サヴォイアは
・カール5世はフランソワ1世から巨額の身代金を得て2人の子息を釈放すること、
フランソワ1世はナポリ、ミラノ、アスティなどイタリア各地への継承請求権及びフランドル、
アルトワ、Tournay、Arrasへの継承請求権を放棄する
・カール5世はブルゴーニュを要求しない
・フランソワ1世の同盟国ヴェネツィア、フィレンツェ、アルフォンソ1世・デステは
4ヶ月以内にカール5世と和解すればこの和平に加えられる
・フランソワ1世はカール55世の姉レオノール・デ・アウストリアと結婚する
などを協定。
これによりイタリアにおいてフランスの威勢は決定的に衰え、
スペイン・ハプスブルク王家が決定的に優位を占める。
★1530年12月1日
マルグリット・ドートリッシュ死去。
■神聖ローマ帝国:1273年~1378年
■ブルゴーニュ=ネーデルラント領:1477年
■ピカルディ州
■エノー伯国
■スイス都市バーゼル
■チロル