いつしか、長い長い夜は明け、目が覚める。

部長先生、現る。

「順調だね。」とのたまう。

(どこがやねん!!と、心の中でどつく。)

部長先生の一言の後、酸素マスクが外される。 
鼻管もここで外されたか?

そして、「今日から歩こうね(にっこり)。」と言い残し、去る。


これを皮切りに
この日、まるで何かのコントのように
入れ替わり立ち替わり、現れる人みな「今日から歩きましょうね。」と言ってくる。

ちゅん先生、お前もか…の瞬間もあった。

ところが、この日の午後、手のひらを返したように
「今日はもう歩かないで。」と、五十嵐先生にクールに言い渡される。

事情はまた後ほど。


朝、看護師さんに
「これからベッドを起き上がって、レントゲンとCTの撮影に行きます。
少し強い痛み止めにしますね。」と言われたような気がするが、定かではない。 

とにかく、この直後から、まともに起きていられなくなった。

レントゲン室まで車椅子に乗せられていくのだけど
乗せられた途端にコクン、コクンと居眠りが始まる。
起きてなきゃと思うのだけど、すぐにコクン。

レントゲンは立ったままのだけではなく
ベッドの上に乗る方式のもあって、拷問かと思った。

歩行練習もしてないのに、台の上に上がるのなんてムリ!

痛み止めしてようが、何してようが、体が思うように動かない。
動くたびに出血するような重い痛みを乗り越えて、どうにかこうにか撮影終了。


これで本日の仕事終了!でもいいくらいだが
皆がコントのように言いに来なくても
私はこの日からがっつり歩くと決めていたので
重い体を引きずって歩く。

病室出て、一番近い窓際に行くのがやっと(一番端の病室だったのに)

歩くたびに、下腹部にすごいズドーンと重い痛みが来る。


ある時、ズドーンと来た後にクラクラっとなり
目の前が真っ白になる。
今度こそ、腹が大量出血したと思った。

血圧を測られたら、40とか何とかと言われていて
急遽、歩くのは中止となり、安静の身へ。


しかし…ここからが、歩くも地獄、寝てるも地獄の時間となる。

もう何がどう苦しいのか分からないほど、体が動かせない。
どんな動作をするにも、意外と腹筋を使っていることが恨めしい。

ただ横になっているにも限界がある。
こんなに苦しい時間が続いたらどうかしてしまう、と思う。

それに
今日はほとんど歩けなかったから、その分、私の回復は遅れるだろう
初日からつまずいているようじゃもうダメだ…
と、超悲観的になる。

ぐったりしているところへ、ちゅん先生現る。
ぐったりしすぎていて、ときめきもしない。

点滴、いつ取れますかね…と聞いたら
「ご飯が食べられるようになるまでだから、あと1週間くらい?」

ええーーーっ。こんな不自由な生活があと1週間も。
精神が先に参ってしまう!


もうダメダメすぎるので、最後の力を振り絞って
お見舞いは来週以降にしてください、と、何人かの人にメールをする。
これだけで限界だった。

遠方から来る従姉妹のお見舞いだけは断れない。
でも、週末までこのままだったら、本当にまずい…と焦る。

夕方5時近くか、母、現る。

手術翌日はほとんど話せないと思うよと言ってあったのだけれど
本当にほとんど話せなくて、驚く。

鼻管の名残りで声がかすれてしまうのだ。
むろん、腹にも力は入らない。

せっかく来てくれたのに、ろくすっぽ話せずに田舎に帰すことになり、申し訳なく思う。

そして、うとうとと眠りに。

ふと目が覚める。

ベッドの脇に男の影。
私の夫?
いや、そんなはずは…とか思いながらよく見てみたら、主治医だった。

ドレーンのカスみたいのをベッドサイドに座って見ていた。
(ドレーンについては、また後で説明します。)

私があまりにぐったりしていたので、母の懇願を受けて(笑)
しばし横についててくれたらしい。

この時の先生の姿があまりに悲しげだったので
ああ、やはりダメなんだな…とか思っていたら
ドレーンの液体とカスを見ながら、これなら大丈夫みたいなことを言っていた。
(悲しげだったのではなく、単に疲れていただけかも。)

液体が、刺身の皿に残るような赤さだったのだけど
それは大量出血の跡ではないらしい。

その後も何か先生がいろいろ話しかけてくれてたけど
ほとんど覚えてない。 
相槌打つのが精一杯だった。

でも、先生、本当に優しいなーというのと
大量出血ではないという安心感から、
ようやく長い眠りに落ちる。


福助さんの休演の話を聞いたのも
主治医に話しかけられている時だったと思う。
お向かいさんの見舞客が、福助が、福助がと言っていて
翌日、気になってググったのだった。

でも、この時はまだ何も分からなくて。


そして、翌朝へ。


※血圧が極端に下がったのは
さ硬膜外麻酔の副作用によるものと思われます。