今日は、笹井芳樹氏の突然の訃報に本当に驚かされました。

事情がどうであれ、
再生医療研究の第一人者が自殺なんて…といろいろ残念に思いましたが、
一方で、
私たちは一つの存在として一つの命を持っているのだなとも感じたのでした。
どんなにすぐれた科学者であっても、一つのかよわき存在。

私は、必ずしもメディアの加熱取材だけが彼を追い詰めたとは思わないし、
(組織の陰湿さの方がよほど怖い気がする(想像))
こういう責任の取り方については全く感心しない。
(無論、そういう意識によるものでもないとは思うが)

それでも、この騒動で彼が傷つき追い詰められたであろうことは深く推測できるし
何よりも、自身が自身を一番強く責めたのではなかろうかと、痛わしくも思う。

社会問題としてというよりは
一つの存在として、記憶のような悲しみが私の体の中にうっすらと残る。

それは、笹井氏への思い入れというよりは
私の内面の変化によるものにほかならない。

不完全だから完全であるこの世界をすべてあるがままに受け入れるレッスン。

いつもどこかに、不透明であるがゆえに何よりも透き通った悲しみをまとうレッスン。



仕事の後、1時間くらいお茶をしていこうと思って寄ったカフェで
謎の中国人女性に人生相談的なことを持ちかけられ
その1時間が終了してしまいました・・・・・・。

でも、その方、少しもメソメソしてなかった。

もう二度と会わない人だけど、同時に、明日はまた別の隣人。

もう片方の隣では
後期高齢者になってから浪費家になった父親に仕送りをする、中年男性の身の上話。

みんな、がんばろうね。

袖振り合うも多生の縁。多生の縁。

みんな一つの袖の中だ。