子供の頃から好奇心が強く、多くの疑問を持ち、

漫画だけでなくあらゆるジャンルの書籍を好み、

大人に多くの質問をしてきて、

日本の義務教育ではあまり深く触れない

戦争の本や映像に触れてきた。

(誰かに強いられたわけでなく。)

 

かつ、先進国と新興国や貧困国を覗いた(多くを見てきた、勉強したなどとは戦争ジャーナリストの方々やその当事者を実際にサポートしてきた人に対し決して言えることではない)自分が言えるのは、

生まれた家庭や環境でほぼ人生が決まってしまうというのは

事実かもしれないが、変えることはできるということ。

日米と新興国で、子どもたちの光と闇を見て思ったこともあるので

それはまたいずれ書く。

 

第一子として、初孫として望まれてこの世に誕生したのに言ってはなんだが、

好きで、望んで生まれてくる者などこの世に一人もいない。

この世は平等ではなく、平等なのは全ての人にとって

1日が24時間であるということ、そして死だけ。

(死生観については別途項目を設けて書いていく。)

 

たまたまラッキーなことに、

育児放棄やあらゆる暴力や精神的虐待をする家庭ではなく、

愛情深い実の両親のもとに昭和末期に生まれ、日本の首都で育った。

両親の育った環境はそれぞれかなり違って、出身地もお互い遠くて、

父が上京しなければ絶対に出会っていなかった。

 

祖母が看護師だったため、母は私が4歳くらいまで実家近くに住んでいたし、

初めての子育てをするにあたり、とても助かったと思う。

日本人は、経済的に相当豊かな家でなければ、

そしてアウトソーシングに寛容でなければ、

簡単にシッターを雇うことはない。

 

父は転勤族ではあったが、母が地方に行くことを望まず、

なるべく遠くへ転勤せずに済むように頑張ってくれていたらしい。

それにいまだに離婚をしていない。

そのため私は高校卒業まで東京で育った。

 

私も父も暮らす場所は気にしないし、

日本はどこでも自然が豊かで美しく食事も美味しい。

でも母はそういうことではなく、

小さく狭い、他人を干渉するコミュニティが嫌だった。

父の実家のことで色々あり、東京の田舎より田舎(お分かりいただけるだろうか・・・都内西部の人は分かると思う)

では暮らしたくないという。

今ならよく分かるが、日本はただでさえ島国で排他的でとても狭いコミュニティ。

狭い都内でも23区と多摩地区では人が異なるように思う。

山梨に近い青梅や檜原の方、神奈川に近い町田も。

 

よってたとえ同じ日本人だとしても、外から来る者に対して厳しい目を向けるところが多い。

たとえ、同じ都道府県内だとしても、だ。

 

それを実感したのはまず幼稚園児の時。

別の街へ引っ越したので私も転園することになったのだが

最初は馴染めなかったことを覚えている。

なんだかクラスにボスみたいな女子が二人いたのだと思う。

思う、というのは、私にとっては実際クラスにどういう人間がいようが興味がなかったから。

自分では、協調性があり(当時は頑張った)

平凡な子どもだったという認識であり

特別強烈な記憶はないが

すでにスクールカーストらしきものはあったように思う。

 

5歳のとき、親の勧めで英会話教室に通い始めた。

当時、他の習い事といえば、通信教育の進研ゼミくらい。

赤ちゃんの頃から水泳をやっていたが

6歳くらいで中耳炎になりやめたのだった。

 

これが外国を見る最初のきっかけだったと思う。

インターナショナルスクールの保育園のように

英語圏出身の先生がいるわけではなく

民間の日本人が教えている英会話教室だった。

その頃はお遊びというか、話せるようになるにはほど遠かったが

単語を覚えるには良かったし 

年上や年下の友達と通っていたから楽しかった。

先生とも、その後とても長い付き合いとなる。

 

その街には長く住んだし、今も友人でいる同級生もいる。

5歳のとき出会った幼馴染みの一人は、私とは特別な縁と絆があり

現在は私と同じく海外で暮らしている。

性格は全く違うのだが、面白いほど通じるところがあり

学生時代は一度も同じクラスになったことがないけれど

どんなに家や国が離れても、何年も会わずにいても、

会えばすぐに昔のように話をして笑い合える友人。

 

その友人はさっぱりした性格だったが

とても純粋で乙女なところもあった。

私は変に頑固で、他の女子みたいにつるむのは嫌いで、

周りの人間にすごく興味がある子どもではなかった。

 

それに幼児の時は恐竜が好きだった。

当時は暗闇で光る恐竜のおもちゃ(自分で組み立てる)があって

全種類集めたりした。

(この頃から歴史や考古学好きの片鱗が?あったのかもしれない。)

日本だと、なぜかレゴや恐竜のおもちゃ=男の子みたいなイメージがあるのでここで書いた次第。

 

恐竜のこと含め、こう書きたくはないが、

分かりやすくするためにわざと言ってみると、

ピンクより青が好きな子どもだった。快晴の空の色だから。

ある程度、サンリオなどのキャラクターものは持っていたけれど

ピラピラしたスカートを履くのは好きじゃなかった。

放課後はよく友達と運動をして遊んだので、それに適さないから。

かと言って女装が嫌で男装が好きとかではなく

シンプルなものが好きだった。

 

両親は絶対的に女の子らしくしろとか

こうでなければダメとか強く言うような人間ではなかった。

女とか男とかそう言う単語で教育してくるけれど

押し付けでなく世間に出て苦労しないように

最低限のマナーや態度を教えようという意図だったと思う。

煩くない、放置過ぎない家庭環境だったことが

どんなにラッキーで幸福だったことか。

その後、コミュニティや世界が広がることで理解する幸福。

 

特に厳しい家ではなかったけれど

歩きタバコしたり、ゴミをゴミ箱に捨てない人間には嫌悪感を抱くし、

10円や50円玉や100円玉を拾ったら必ず交番に行き、

クラスでいじめてる奴や万引きをしてる奴に対しては

こいつらクズだなと思う程度には

正義感の強い子どもだったように思う。

 

近所に同世代の子供が多かったので、

そのまま小学校でも会うことが多かった。

その義務教育で感じたことが、私が外国へ早く行きたいと願う後押しをした。