インナーチャイルドは号泣すると癒されていくもんかな

3人の子供の末っ子の女の子。

 

3人目にやっと生まれた女の子。

 

上2人の男の子だから、心が強くて家族でいちばん男前。

 

そんな娘は中学1年のとき、小児科医から「場面緘黙症」と言われた。

 

驚いた。だって家ではお兄ちゃん相手に負けないくらいケンカもしてたし、仲の良い時はよく喋っていたから。

 

ところが、家から一歩外に出ると、喋らないらしい。

 

学校でも、極めて無口だったらしい。

 

その当時、看護学科出たばかりで、大学病院で働いていて、子供3人は育ての母に預けていて、別々に暮らしていたんですよね。

 

大学病院から車で2時間半くらいかかるところに実家があったため、看護学校入学の時、中1、小6、小4の子供たちを母に預けて夫と私は県中心部の街に住んでいたわけです。

 

自分が小さい頃から、あまり好きではなかった育ての母に子供を預けるのは心配だらけで、本当は3人とも連れて行きたかった。

 

それができなかったのは、働きながら看護学校に行くことになっていたので、子供たちに十分なことをしてあげられないのでは? 食事も満足に作る余裕もないかもしれない、都会で鍵っ子にしたくなかった、自然の中で育ってほしかったこと、それと育ての母はとてもとても寂しがり屋で、とても母をひとり残していくことが忍びなかった。

 

毎週末に子供に会いに帰る生活が、5年目を迎えた頃、仲良くしていた小児科医のライブコンサートに招かれて、家族全員を小児科医に紹介したのね。

 

そしたら、医師が「あの子は場面緘黙症だと思う。ただちに子供たち3人をあなたの元に連れてきなさい。だいたい親子が大事な時に離れて暮らすなんておかしいよ。

子供はね、親のそばにいるのが幸せなの、食事の内容とかよりも、菓子パンだって親のそばで暮らす方がいいに決まってるじゃない」

 

母親が寂しがるから、子供たちを置いてきた。それって母親としてどうなの?と自分でも思うけれど、その時はそれが自然な選択のように思えてた。

 

育ての母は感情があからさまで、傷つくようなこともバンバン言っちゃうひと。

 

育ての母のお気に入りは、明るく優しい次男で、大人しくて内向的な長男と末っ子の娘は、常に小言を言われ続けていたようだ。

 

お気に入りの次男にさえも、言うことをきかないと震えあがるような怒り方をする。

 

娘が場面緘黙症になったのは、母のせいだと無責任な私は思っていた。

 

娘が2ヶ月の時も、父が死んだ時に、母に心理的に責められるようなことを言われて、母乳も止まってしまったことがある。

 

悪い人ではないけれど、心底好きになれないのが育ての母だった。

 

気前もよくサービス精神旺盛で人をよくもてなし町の人たちはみんな母のことが大好きで頼りにされている。外面はとてもいいけれど、家族にたいして言葉がきつい。

 

「おばあちゃんが怖い」

 

子供たちは3人とも口をそろえる。

 

「半端ないよね、怒り方、すごいよね」

3人集まっておばあちゃんの話をする時は、怒られ武勇伝が始まるほど。

 

本当に怖いおばあちゃんだった。

 

娘が中1、次男が中3のとき、家族全員暮らし始めた。

長男は2年先に、高校入学とともに私たち夫婦のもとに来てたわけです。

 

大学病院で勤務していたら、夜勤はある上に日勤でも夜10時まで働くのはザラだった。

 

医師は「大学病院はやめて、日勤のみの近くのクリニックで働いた方がいいよ」と、

過酷な職場の退職をすすめてくれた。

 

日勤のみは楽すぎて、なんか落ち着かないくらいだったけれど、看護学校卒業1年目なのに、訪問看護部の責任者にされてしまい慌てふためいた。

 

責任重大すぎて、経験の浅い自分には無理。

看護師として基本的なことは全部学びたいと思い立ち、救急総合病院へ移って修行を始めたのが48歳。

 

子供たちも鍵っ子というほど小さくはないし、夜勤も始めた。

 

勤務し始めると大学病院以上に過酷な日々だったが、違うことがひとつ。

 

人間関係だ。

 

日勤で働いてそのまま次の日の9時まで勤務が続くのにもかかわらず、毎日が楽しい。

 

なぜか。人間関係につきる。

 

大学病院の時は病棟だったが、救急外来での勤務だったのだ。

 

緊張感があり、お互いに助け合うような温かさがあった。

疲れていても、疲れた風情では仕事ができないから、懸命に緊張して集中する。

 

疲れは感じたけれど、どっと家に帰って泥のように眠るだけ。

 

忙しかったけど、救急看護も手術看護も外科も整形外科も災害看護も経験でき、看護師として経験したい技術を身につけて充実した日々だった。

 

2015年5月13日の母の日に近い私の誕生日にそれが起こった。

 

娘が21歳、私が53歳の時だ。

 

家族が眠りに着く頃、家に帰り着いた私がみたものは、

 

整理整頓されたリビングルームとピカピカに掃除されたキッチン。

 

私の部屋は、リビングルームだったのね。

 

そして小さなぬいぐるみたちが5体ほど並べられていて真ん中のクマのぬいぐるみがメッセージカードを抱えていた。

 

「お母さん、母の日にいつもありがとう、お誕生日おめでとう!癒し系オールスターズだよ」

 

 

 

次の日の朝、娘に

「部屋が片付いていて、気持ちよかった、ありがとうね」

 

「お金もたくさんなくて買ってあげられないから、お母さんがいちばん喜ぶことってなんだろうなぁって考えたの、そしたら、部屋がきれいに片付いているとお母さん喜ぶんじゃないかなぁって思ったの」

 

お母さんが喜ぶことってなんだろう、、、

 

この言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れ出て、娘を抱きしめて号泣していたの。

 

何を感じたのか?

 

「お母さんが喜ぶことってなんだろう? 」

 

私は50年生きてきて、そんなことを一度も考えたことがなかった。

 

どうしたら母は怒らずにすむだろう?

 

こういう考え方しかできてなかった。

 

母が機嫌を悪くしないように、怒らないように

 

そう言う考え方しかできなかったのだ。

 

娘がいま、私に言ってくれた言葉

 

お母さんの喜ぶことってなんだろう、この言葉を聞いた時、娘の愛情を知り、母の心情を知った。

 

母は普通の親子のように、なんでもなく子供が母を慕うように、「お母さん、お母さん、あのね、今日ねこんなことがあってね」

 

っていう子供のわたしから甘える無防備な無邪気な愛情を感じたかったんだ。

 

心を開かない私に、心もとない寂しさがあったんだ。

 

さびしい気持ちは、表現もねじれていく。

 

そんなことが一瞬でわかった。

 

私は

母は何をしてあげたら、喜ぶかなぁ、こう言うことしたらきっと喜ぶだろうなぁってそんなことは考えたこともなかった。

 

やっとわかったのだ。

 

娘がいま、私にしてくれたこと、お母さんが喜ぶ顔がみたい、そんな気持ちが母はきっとほしかったに決まってる。

 

私は月星座おとめ座で、整理整頓が苦手。だけどきれいにしたい欲求は強い。

娘は普段の私の言動をちゃんと聞いてくれていたんだと思う。

 

いちばん、嬉しい贈り物だった。

 

整理整頓された部屋、ピカピカのキッチン。

 

可愛らしい癒し系オールスターズのぬいぐるみたち。

 

リビングダイニングルームが温かい娘の気持ちに溢れて、しんと静かなきれいな部屋が抱きしめてくれているようだった。

 

大きな温かい愛情で私を包んでくれた娘。

 

娘から学んだ。

 

母の欲しかったもの。

 

喜んだ顔でいてほしい。お母さん。

 

田舎が大好きな母で、なかなか都市部の私たちと一緒に暮らすまでは時間がかかったけど、次の年、体も思うように動かなくなり、軽い認知症も出てきたので、入院してた病院を退院する際に、私たちの元につれてきて一緒に住むことになった。

 

母はデイサービス、私は勤務、娘は看護学校3年目の時だった。