―今まで一緒にいてくれてありがとう。
蓮に出会えて、すごく幸せだったわ。
私は先に行ってしまうけど、蓮は私の分まで生きて、もっと幸せになって……。
それが私の、最後の願い。
もう会うことはできないけど、ずっと蓮のこと見守ってるから。―
琉奈がこの世を去ってから、もう5年になる。
俺は未だに、琉奈の願いを叶えることが出来ていない。
琉奈がいないこの世界で、俺が幸せになることなんて二度とないだろう。
この5年間、ずっとそう思っていた。
俺は篠田蓮、大学の教授だ。
過去の出来事がきっかけで人に心を開かないからか、
自分で言うのもなんだが生徒からの人気は低い。
「あっ、おはようございます篠田先生!」
ただ一人だけ、例外がいる。雪野星羅。
毎日俺の所に来ては、一方的に話して帰っていく。この大学の学生だ。
俺が黙っていると、また一人で話し始めた。
「先生!今日学校に来るときに、
すっごく可愛い子猫がいたんですよ。真っ白な毛で、
瞳が蒼いんです!ビー玉みたいで綺麗でした。
私、あんな猫飼ってみたいな~」
手を胸のところで組んで話していた彼女は、思い出したようにこちらを見た。
「あっ、先生は犬と猫どっちが好きですか?」
そう言って、俺の顔を覗き込んできた。
無邪気で人を疑うことを知らない様な瞳。
「……」
俺は思わず口を開きかけ、やめた。
彼女は、琉奈じゃない。わかっていても、琉奈との思い出にリンクする。
そんな俺のわずかな表情の変化に気がついたのか、彼女はいつもと違うことを言った。
「先生、どうして逃げるんですか?」
意味がわからず、俺は彼女を見た。彼女は繰り返す。
「どうして逃げるんですか?」
「俺は逃げてなんか……」
「いいえ、逃げてます」
言い返そうとした俺の言葉を遮った。
「何から逃げているのかは、わからないですけど……。
先生は確かに逃げています」
普段の彼女とは違う、真剣な眼差し。
俺は、耐え切れずに目をそらした。
「もうすぐ講義が始まるだろう。早く行け」
俺は仕事に戻ろうとした。
「いやです」
「な……っ」
「先生が話してくれるまで、行きませんから」
今まで一度も見たことのない彼女の態度に、俺は戸惑った。
それと同時に、俺の気持ちは揺らいでいた。
彼女は……、雪野星羅は琉奈に似ている。
顔とか体型とかそういう外面的なことではなく、
考え方やちょっとした仕草、人と話す時の様子が驚くほど似ている。
「誰かに話した方が、すっきりすることもあります。
一人でなにかを抱え込んでいる先生を見るのが、辛いんです」
沈黙を破ったのは、彼女のほうだった。
「初めて先生を見た時、すごく辛そうでした。
なんでかわかんないけど、この人はこんな表情していたらダメだと思ったんです」
俺ははっとした。
―「ダメよ蓮」
「どうした……?」
「蓮は笑ってるときが一番かっこいいんだから、
そんな辛そうな表情していた ら、ダメよ」
「琉奈……」
また、琉奈と彼女がリンクする。
「先生……?」
動きを止めた俺の様子が気になったのか、心配そうに顔を覗き込んできた。
「私のせい……ですか?」
俺は黙っていた。
「先生がそんなに辛そうなのは、私のせいですか……?」
「……っ!?」
―「ねぇ蓮」
「なんだ?」
「蓮がそんな顔してるのは、私のせい? 」 ―
まただ……。なぜこんなにも、似ているんだ。
「やめてくれ……」
「先生……?」
俺には琉奈だけでいいんだ……。
「これ以上俺に関わるな!」
俺は部屋を飛び出した。これ以上彼女と関わったら、今の状態を保てなくなりそうだった。
「ごめんなさい琉奈さん……。
やっぱり私には、先生の心を支えることは出来ないかもしれません……」
彼女がそんな呟きを残して部屋を去ったことは、しるよしもなかった。
それから数週間が過ぎた。
あの日から、彼女が俺のところに来ることはなかった。
今日は3月27日、琉奈の命日……。
俺は仕事を休み、墓参りに出かけた。
琉奈は、本人の希望で海が見える丘の上で眠っている。
なだらかな丘を登ると、視界が開けた。俺はそのまま立ち尽くす。
なぜ……?なぜ彼女がここにいる…?
彼女が、そこにいた。琉奈が眠る墓に手を合わせ、目を閉じている。
俺は声を出すことが出来なかった。
数分たって、彼女がゆっくりと立ち上がった。
俺と目が合う。彼女もその場に立ち尽くした。二人の間に沈黙がおりる。
「あ……あの、すいません!」
今回も、沈黙を破ったのは彼女だった。
「なぜ、ここにいる……?」
「えっと……、それは……」
俺が睨みつけて問い詰めると、
いつもはきはきとした口調の彼女が、珍しく視線をフラフラとさ迷わせている。
「琉奈を、知っているのか…?」
俺がため息をついて尋ねると、彼女は躊躇いがちに頷いた。
「……はい」
俺は信じられなかった。
この場所は、俺しか知らないはずだ。
「誰に聞いた……?」
「……琉奈さんです」
どういうことだ?この墓のことは、琉奈にも話していない。知っているはずがないのだ。
「詳しく説明しろ」
今度は彼女が黙り込む番だった。
二人の間を、風が通り抜ける。俯いていた彼女が、顔を上げた。
「琉奈さんは、私の命の恩人なんです」
俺は彼女の言葉に首を傾げた。
「琉奈が……?」
「はい」
彼女はゆっくりと話しだした。
「6年前、私はある病気にかかっていて、
余命1年と言われたんです。私は大学を辞めて治療に専念しました」
俺は黙って聞いていた。
初めて聞く彼女の過去、琉奈が俺に話さなかったこと……。
「ほとんど動けないまま一年を過ごし、
この命がいつ尽きるのかわからない不安を抱えながら生きていました。
そんな時です、私に嬉しい知らせが届いたのは」
「嬉しい知らせ……?」
「先生にとっては、嬉しいことではないと思いますけど……」
そこで彼女は、もう一度迷うそぶりを見せた。
「私はその時、琉奈さんと出会ったんです。患者と、ドナーの立場で……」
「ドナー……?」
彼女は頷いた。
「琉奈さんは、私のドナーなんです」
琉奈が、ドナー……?知らなかった。
「その時に、先生のことも聞きました」
「なんて、言っていた……?」
彼女は微笑みながら言った。
『 私には愛する人がいるの。
蓮っていうんだけど、不器用で少し無口で、
だけどすごく優しいのよ。いつも私を支えてくれる、とても大切な人。
蓮も私を愛してくれてる。だけど……、
だからこそ私が死んでしまったら、
蓮は誰かと親しむことも誰かを愛することも恐れてしまうかもしれない。
私はね、蓮に幸せになってほしいの……。
だから、私が死んでしまったら、今度はあなたが蓮を支えてくれない?
私の命を継いで生きていくあなたへの、
ただひとつの願いを、聞き届けてはくれないかしら……?』
「琉奈…っ」
彼女は、静かな瞳を俺に向けてきた。
普段とは違う、まるで琉奈のような雰囲気を纏う彼女を見て、俺は悟った。
彼女の、星羅の中には琉奈がいる。
―もう会うことはできないけど、ずっと蓮のこと見守ってるから ―
あの時の約束を、琉奈は守り続けていたのか……。
「蓮……」
俺は驚いて顔を上げた。
「琉奈……!?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「星羅さんに、少しだけ体を借りたの。
心臓を移植したせいかしら、星羅さんの中には私の意識もあるのよ」
そんなことが……あるのか?
俺は、呼吸をするのも忘れるほど驚いていた。
「じゃあ、これからも琉奈に会うことができるのか……?」
俺は期待を込めて言った。
だが、琉奈の返事は俺の期待を裏切るものだった。
「ダメよ……」
「なぜ……!?」
詰め寄る俺に、琉奈は辛そうに答えた。
「本来、体というひとつの器に存在できる魂はひとつだけ……。
今の星羅さんは、私のためにその理を犯してしまっているのよ。
5年間も体の中に二つの魂を持ち続けている星羅さんは、
そろそろ限界なの。下手したら、星羅さんまで死んでしまうわ」
「な…っ!?」
琉奈は、自分よりも星羅の身を案じているのだ。
自分の死を受け入れて、俺と星羅を救おうとしている。
それなのに俺は……。
「だから、蓮と話せるのはこれが最後……」
琉奈は俺の目の前まで来ると、そっと俺の頬に触れた。
「蓮、ありがとう。蓮と過ごした時間が一番幸せだったわ。
私にとって蓮は、なくてはならない存在だったの」
俺は涙を堪えながら笑った。
「それは、琉奈のことだろ?俺は琉奈に、何度も救われた……」
琉奈は小さく首を振った。
「違うわ……。私が強く生きていけたのは、蓮がいたからよ。
病気になってから、すごく怖くて不安で、何度もくじけそうになったわ。
でも、蓮がずっと傍にいてくれた。それだけで、すごく支えになったの。
だから私も、蓮にとってのそんな存在になりたいと思った…」
俺は琉奈を抱き寄せた。堪えきれなかった涙が、頬を伝った。
「琉奈がいてくれて、よかったよ……」
琉奈が頷いたのがわかった。
「蓮…」
「どうした……?」
琉奈はそっと離れて、俺の目を見た。
「蓮、幸せになって……?私の分まで……」
「琉奈……」
「私は大丈夫だから……。
もっと蓮の傍にいたかったけど、自分な死は受け入れてるの。
私は、蓮に笑っていてほしい……。自分のために幸せになって。
蓮の幸せが、私の一番の幸せだから」
俺は笑った。うまく笑えてる自信はない。
俺は幸せになろうと決めた。
琉奈はもう、自分の手で幸せをつかむことはできない。
俺の幸せが琉奈の幸せなら、もう迷わない。
「琉奈の分まで、幸せに……」
「うん、ありがとう」
暖かい風が、二人をそっと撫でた。
しばらくして、二人はどちらからともなく離れた。
「そろそろ、行かないと」
「あぁ……」
琉奈は笑っていた。
「今度は、笑って別れたいの……。最後に、蓮の笑顔を見たいから」
「わかった」
俺は笑った。今度はうまく笑えているような気がする。
「これで、本当にお別れね……」
「気をつけて行けよ……?」
琉奈は一瞬きょとんとして、すぐに笑った。
「今までありがとう。行ってきます」
琉奈は笑みを浮かべたまま、すっと目を閉じた。
二人の間を、花びらを連れた冬の風が通っていく。
彼女の体から力が抜け、俺の方へ倒れてきた。
受け止めると、彼女は目を覚ました。
「あ……先生、すいません!」
俺は黙ったまま、星羅の頭を撫でた。
星羅はきょとんとして俺を見ている。
「帰るぞ」
「え?あっ、ちょっと待ってください!」
何も言わずに歩きだした俺に、星羅は慌てて着いてきた。
「あの……っ!」
「なんだ?」
星羅は俺の目の前に立った。
「先生」
星羅が目を閉じて深呼吸するのを、俺は黙って見ていた。
そして、次に聞いた言葉に驚いた。
「好きです」
「……っ!?」
「私じゃあ琉奈さんの代わりにはなれないかもしれないけど、
私は先生を支えたいんです」
いきなりのことで声を出せずにいる俺を、彼女は不安そうに見上げてきた。
「ダメ……ですか?」
俺は軽く息を吐き、星羅を抱き寄せた。
「……好きだ」
彼女は驚いたように俺を見た。
「私でいいんですか……?」
俺はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
3月27日、琉奈の命日に、俺は二度目の人生を歩み始めた。
琉奈……。今も見守ってくれているのか……?
星羅と付き合い始めて、もう一年になる。
俺は、琉奈の願いを叶えることができたか……?
相変わらず、星羅は琉奈に似ているよ。
でも、二人を重ねて見ているわけじゃない。
琉奈との時間は大切な思い出だ。
俺は決して、君と過ごした日々を忘れない。
ありがとう、琉奈……。