「あなたは、誰ですか?」
俺は目の前にいる女性に声をかけた。
「ここはどこですか?俺はなんでこんな所にいるんです?」
それでもその女性は、悲しそうな表情で微笑むばかりだった。俺はその女性のことを知っているような気がした。
女性に近くために動こうとすると、腕に点滴の針が刺さっていることに気がついた。
「まだ、動かないで下さい。お医者さん、呼んできますから」
女性は、そう言って部屋から出て行った。呼び止めようとして持ち上げた手をゆっくりと下ろし、改めて辺りを見
回すと、ここが病院であることがわかった。
「俺、なんでこんなところに……」
思い出そうとして、俺は記憶が抜けていることに気がついた。自分の名前すら覚えていない。
必死に思い出そうとしていると、扉が開いて医者が入ってきた。俺は軽く頭を下げ、さりげなくさっきの女性を探し
た。
「さっきの女性なら帰りましたよ」
俺の様子に気がついたのか、医者はそう言うと俺の隣に立った。
「あの……」
「そんなことより、夢倉さん、どこかおかしいところとかありませんか?どこか痛むとか」
言及するなということだろうか。医者は俺の言葉を遮り、手首に触れて脈を測る。俺は正直に話した。
「記憶が、ありません」
医者は驚いたようで、いくつか質問をしてきた。
「わかりました。もう一度精密検査をして、ほかに異常がなかったら退院していただきます。記憶のほうは、我々
にはどうにもできないでしょう。運がよければ、戻ることもあります。申し訳ない……」
医者はそう言って、立ち去ろうとした。俺はとっさに医者の腕を掴んだ。
「待ってください。何があったのか、教えてください。知る権利くらいあるでしょう?」
医者は少し表情を曇らせたが、部屋の隅に置いてあったパイプ椅子に座った。迷っているのだろう。しばらく目を
閉じ、話し始めた。
「君がここに運ばれてきたのは、一年前だった……」
記憶以外に異常はなかったようで、目が覚めてから数日で退院できた。記憶はないが、一年ぶりの我が家に帰
ってきて、俺は医者の話を思い出していた。
あの日、ここに彼女て一緒にいるときに強い地震が起きた。俺は彼女を庇って大怪我。そのまま、一年も眠って
いたらしい……。
俺は鞄から、医者から預かった栞を取り出した。見たことのない植物が押し花にされている栞。彼女からのメッセ
ージ。記憶を失う前の俺は、意味を知っていたらしい。俺はその植物について調べた。
だが、植物の種類はあまりにも多くて、気がつけば一週間も経っていた。
「どうすりゃいいんだよ。早く思い出さなきゃいけないのに」
焦るばかりで前に進めなかった。もうすぐ桜が散る。俺は頭を抱えてしゃがみこんだ。そして気がつく。
「花屋……」
俺はそのまま家を飛び出した。
「あの、すみません!」
俺は近くの花屋を訪ねた。
「これ、この植物についてなにか知りませんか?」
店には店員が二人いた。そのうちの一人が栞を覗き込むと、困ったように首を傾げてもう一人の店員を呼んだ。
「私にはちょっと……。ねぇ、雪奈ちゃん、これわかる?」
呼ばれた店員も、栞を見ると少し首を傾げた。俺が諦めかけたとき、
「勿忘草…」
小さな声で呟き、店員は俺を見た。
「大切な人が、いますか?」
俺は急な質問に驚き、曖昧に頷いた。
「花言葉、知りませんか?」
俺はもう一度頷いた。
「教えてください」
「勿忘草の花言葉は、あなたのことを忘れない、です」
俺は店員の言葉を反芻した。店員は微笑むと、もう一言呟いた。
「もうひとつの花言葉は、私のことを忘れないで」
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中に失っていたはずの記憶が戻った。そして俺は、大切なことを思い出した。
俺は店員に礼を言って走りだした。近くでタクシーを拾うと、行き先を告げた。
タクシーを降り、俺は走った。あまり整備されていない道を、全速力で走り抜ける。
「間に合ってくれよ……」
長い入院生活で、体力がかなり落ちていたらしい。すぐに息があがり、木の根に躓きそうになる。
しばらく進むと、急に広い場所に出た。小さな花がたくさん咲いている緩やかな丘。その中に一本だけ、大きなサ
クラの木があった。俺は、その傍に一人で佇む女性の姿を見つけた。
「桜……」
桜は、驚いて振り向いた。いるはずのない俺を、呆然と見ている。俺はゆっくりと桜に近いた。
「5年前の今日、4月7日は俺達の記念日だ。そして……」
俺は桜に腕を伸ばし、そっと抱きしめた。
「ハッピーバースデー、桜」
桜はなにも言わずに、俺の背中に腕を回した。顔を見なくても、桜がどんな表情をしているのかがわかった。
「ありがとな。桜のおかげで記憶がもどったんだ。あの栞、勿忘草。最初はわからなくて焦ったよ」
「うん。よかった。もう、会えないかと……。」
桜の柔らかな髪を撫でる。
「辛い思いさせてごめんな……」
桜は黙って首を振った。
「桜の想いが、奇跡を起こしたんだ」
桜は顔を上げると、微笑んだ。
いつの間にか、空は夕日で染まっていた。満開のサクラの木の下で、俺と桜は寄り添って座っている。
「なぁ、桜」
「なぁに?」
桜は俺の顔を覗き込んだ。
「あの時……。なんで本当のこと言わなかった?」
桜は空を見上げ、俺の肩に頭を乗せた。
「無理だよ。だって、春輝は私のせいで……」
俺は驚いて、桜と目を合わせた。
「それは違う!俺が助けたかったから助けたんだ。桜のせいじゃない。桜がいなくなってしまったら、俺は……」
「……でも」
桜は俯いた。俺は桜を抱き寄せ、言い聞かせるようにささやいた。
「俺は生きてる。それでいいんじゃないか?」
「うん、よかった……。ほんとに、よかった……」
俺は目を細め、微笑んだ。
「あぁ、ありがとな」
風がサクラの花びらをさらっていった。
勿忘草 花言葉は
『 あなたを忘れない
私を忘れないで』