荷物は最小限に | つばめのしっぽ

つばめのしっぽ

機能不全家族で育った私についてと、ポエムを書いています。

「私に持てる荷物は多くない」

なんちゃって瞑想をしようと


目を瞑って静かな呼吸を始めた時


ふと そう浮かんできました。




私は人付き合いは苦手な方です。


だけど「人間」は割と好きです。



この人はどんな場所

(環境やこれまで生きてきた人生の総称としての場所)


に生きてどんなことを考えているのかを


少しだけ知りたくなります。


その人の背景を知りたくなるので


話を聞きます。


興味を持って聞くせいか


目の前の人は楽しそうに話しています。


聞けばますます寄り添うような気持ちになります。


 

自分で言うのもなんですが


結構色々柔軟に受け入れられる方だと


思っています。


興味のない分野の話を聞き続けるのは


難しかったりはします。


そのへんは普通です。




そんなふうにしていると


時々 まるで


コイツなら何を言ってもやっても


大丈夫だろう、というような態度に


出くわします。


感情のはけ口のように


八つ当たりをされたりします。



その人が 本当は私ではない誰かに


言いたいことがあるんだろうと思います。


それを 本命でない私に当てて


ウサを晴らしています。



その人たちは コミュニケーションの中で


私がじっとその人を観察していることに


気づきません。



その言動をみていると、


自分が抱えている心の闇や本音に


気付いていないみたいだなぁと思います。



自分の中にあるものなのに、


自分の中にはそんな闇はなくて


目の前の私の方にあると


本気で思っています。


勘違いをしています。


そうしたほうが楽だからね。



そして冒頭の話に戻るのですが


私に持てる荷物はそう多くないな、と


最近感じています。



人のことが好きであっても


私は八つ当たりされていい存在では


ないですから、


その人にたとえ悪気はなくとも


静かに距離を取り


私は私にエネルギーを取り戻し


生かされている間は


生きていかなければならない。



不器用で 


良い加減で人と付き合うことが


どうしても難しいです。


多くの人が見る場所(視点)に


ピントを合わせることが出来ないから


変わっているんだろうなあ、と。



こんなふうに書くのは


何だか傲慢なような


人とは違う私〜と


変な自惚れのようになるかも


しれませんが




あまりにも


我(われ)が我(われ)がで


生きている人に出くわすと


さすがに


そこは切り落としていくしかないなぁ


何でもかんでも持つことは出来ないなぁ


だって自分が死んでしまったら


元も子もないもの、と


思うのです。



それは、巷で言われている


2025年7月に災害が〜


の話ではないけれど、


地球も同じような気持ちなんじゃなかろうか


と思ってしまいます。


自分にも言えることですが


黙って差し出され与えられているものに


気づくこと、


視点を変えたり自分の頭で考える事、


言ったものやったもの勝ちではなく


その言動は必ず視られており


摂理は絶え間なく働いていることに


畏怖する気持ちを


忘れたくないなぁと思います。



変な独り言になりました。


お読みいただき


有難うございましたニコニコ





東京ドームの野球観戦のお土産もらった〜


ヒョロヒョロひまわり🌻