ひーさーしーぶーり。



程良くひまで、楽しくてぬるくて悶々とした日々を送っております。




でもやっぱり頭の中はぐるぐる考えてしまう。



恋人がいるのに異性と二人きりで遊びに行く意図がわからない
とか、男女の友情なんて・・とか散々思っていたけど

そうじゃなくって結局、

"恋人を傷付ける行為"をやめない意味がわからないのでした。


実際その異性と何があろうとなかろうと関係ないんだよ、
恋人が嫌がってたら事実がシロでもやめるべきなんだよね。


私だって、誰かれかまわず嫌なわけじゃないんだ。


相手に紹介してもらったうえで内緒にされなければ、
気にならない場合もたくさんありえたわけなんだ。




昨日は友達が

「疑うことより信じることの方が簡単」

と言ってた。

私も前はそう思ってたよ~~


でも、

「信じるより疑う方がダメージが少ない」


ということも学んでしまったんだよね。




そもそも、信じるってなに?


信頼とは積み重ねである。

信頼とは相手に与えてもらうものである。

信頼とは自分の中の決意のことである。


どれが正解なんだろう?

少なくとも経験上、自分の中の決意だけでは
100%の信頼ってなかなか難しかったよ。


不安になったら拭ってもらって、
安心させようと努力してくれる姿の積み重ねで
ある時やっと信頼できるようになるのだと思う・・・

築きにくく、崩れやすいものかもしれないね。





そして、「好き」ってなに?


いま「好き」って、好きが日々更新されているってこと?

それとも、過去に好き「だった」記憶を引きずっているの?

それとも、時制に関係なくその存在をまるごと「好き」なの?



でも私は少なくとも、ある程度の頻度で顔を合わせて、
気持ちをぶつけ合ってちゃんと向き合って

そのうえでの「好き」じゃなきゃちゃんとした意味なんてないと思う。


たとえば初恋の人を忘れられないとか、

別れた恋人を会わなくなった今でもずっと好きでいるとか、


それは「好きだった記憶」を愛でているだけで
いま現在の「好き」じゃないと思うんだよ。





いま現在進行形で、

ぶつけ合って悩んで苦しんで

想っていて愛したくて愛されたいのは

絶対に私が一番そうなのに

どうして揺らがない場所に行けないの。





昔は、思い出すだけで、考えるだけで体が痒くなるほど
つらくて悲しい思いなんてしたことなかったな。

もちろんしあわせなこともたくさんたくさんあるけど


「あげたい」って

思ってもらえなきゃ意味のないことだってわかっていても、

「ちょうだいちょうだい」ってせがんでしまうようになった。



そうしてせがんで与えられても、虚しさが残るって知っているのに。



何も期待せずに、一番底の底から眺めているときは
振り回されず、傷つけられず自分のペースを保っていられたんだけどな。

いまさらそんなふうに戻れないし戻りたくない。

今までのいろいろをなかったことにはしたくない。




知らぬが仏 ってほんとうかなぁ

知らなければ、騙されてても侮辱されててもいいの?

自分だけ幸せに思えてれば、現実が違ってもいいの?


そんなふうに思おうとした時期もあったけど
やっぱり納得できないんだよなー

自分の背後でも物事は色を変えないでほしいし

幸せな夢は幸せな世界でみたいし

相手と気持ちを共有したいと思ったら
知らぬが仏なんていえたもんか。




一緒にいればしあわせ。

でもケータイがなるたびにびくびくする苦さ。

離れた途端に不安につぶされそうになる。


いっそのこと文明の利器なんてなかったらよかったのにと



切っても切っても再生する不思議な糸の様で
きりがなくて頭が痛くてノイローゼみたいになる。




ああすればよかった、こうしなければこうだったかなとか、

そんなこと考えたって

選択しなかった未来はもう選択肢から消えてしまうんだから。


過去をやり直そうと元来た道を戻ったって

絶対に物事は同じように待っていてはくれない。






本心から来る素直な愛情よ世に蔓延しろ。


きっと

会いたい、好きだよ、大事だよって

本心から言ってくれる人がいたら他のどんな辛いことも
乗り越えられちゃうんだと思います。


甘い言葉も、優しい行動も、気持ちが伴わなきゃ意味なんてない。


笑顔も。



こころと裏腹な感情表現ほど寂しいものはないよ。




いつも心の底から幸せな笑顔でいたいよー