Judy Garland | 上から読んでも下から読んでもナカノカナ。~相模原・町田の女装娘カナの気まぐれ雑記~
今日は私の敬愛するJudy Garland様の命日です。

虹の彼方に行ってから、もう40年以上経ちました。

何より私が好きなのは、あの力強く心と魂を感じる血肉の通った、感情を揺さぶる歌声です。

白人の女性エンターテイナーで、初めて黒人式の歌唱方を取り入れたのは彼女だそうです。

彼女は生まれた時からショービジネスの世界にいました。両親が舞台の仕事をしており、初舞台は3歳頃だったとか。

その後子役として映画界入り、数年の下積みの後、「オズの魔法使」のドロシー役でスターになります。

「オズ~」以降は、ミッキー・ルーニーとのコンビで多数ミュージカル映画に出演、人気を博しました。

40年代には、44年に「若草の頃」、45年には歌や踊りが一切なしのストレート・プレイ「時計」(日本未公開)に出演し、演技派としても評価されます。

その他にも46年の「ハーヴェイ・ガールズ」(日本未公開)、名作と名高い48年の「イースター・パレード」などのヒット作に恵まれました。

しかし彼女は元々太りやすい体質だった事から、(40年代初頭から)減量の薬として当時映画界で当たり前のように使われていた覚醒剤を服用しており(他に睡眠薬も常用していた)、加えて子役の頃から舞台のオールナイト興行などで夜通し働かせるために、小さい頃から日常的に薬物を服用していたために(当時は子役の労働に関する法律が現在のように制定される前だった)、この頃には完全な薬物中毒になっていました(更には神経も患っていました)。

また皮肉にも薬物でハイになった状態がより彼女のパフォーマンスを輝かせる事になったのです。

これらの影響で、絶え間無い対人関係のトラブル、急に撮影をキャンセルしスケジュールを狂わしたり、結婚離婚を繰り返したり(この時点で2人、バンドリーダーのデイヴィッド・ローズ、映画監督のヴィンセント・ミネリ。彼との間に生まれたのが「キャバレー」などで知られるライザ・ミネリ)、乱れきった性生活、精神病院への入院日常茶飯事の自殺未遂など、彼女自身はボロボロになっていました。

政府は逮捕こそしなかったけれど、彼女をマークしていたそうです。

トラブルを繰り返し彼女はとうとう50年の「サマー・ストック」(日本未公開)を最後に、映画会社を解雇されてしまいます。

再起不能とまで囁かれた彼女をカムバックに導いたのは、彼女の3人目の夫となるシドニー・ラフトでした。

彼女はこれ以降、映画界から距離を置き、コンサートなどの舞台に進出します。

51年のロンドン公演の成功を皮切りに、ジャズ・シンガーとしての活動に重点を置きます。

54年には「スタア誕生」で久々に映画界に復帰。この作品は彼女の女優としての代表作となり、アカデミー賞にノミネートされますが、本命視されたにも関わらず受賞を逃してしまいます(彼女の関係者との相変わらずのトラブルがスタッフの心象を悪くしたのが原因と言われています)。

もし受賞していれば、彼女のその後は変わっていたとも言われています。

一時期良くなっていた、彼女の私生活も再び荒れて行きます。

その後もステージ活動は好評でしたが、相変わらずトラブルは絶えず、しょっちゅう裁判沙汰になっていたとか。

50年代後半からは、Capitolに所属しアルバムも何作か発表しましたが、売上は芳しくなかったようです(いずれも良い作品なんだけどねぇ…)。

この間も自殺未遂や入院は繰り返され、60年前後には余命3年の宣告を受けたそうです。

61年の4月、彼女の生涯最大のハイライトとなったカーネギー・ホールのコンサートが行われました。

同年に発売された、ライヴ盤は彼女の最高傑作となり、当時人気絶頂だったビートルズを抑え、13週連続でビルボードの1位になりました。その後も長くチャート・インし、大ヒットとなりました。

同年には、スタンリー・クレイマー監督、「ニュールンベルグ裁判」に出演、ストレート・プレイで久々に演技力を疲労し、アカデミー賞にノミネートされましたが、こちらでも受賞は逃しました。

その後はイギリスで映画に二本出演して以降は出演はありませんでした。

またこの頃63年から、CBSのテレビシリーズ「The Judy Garland Show」に出演、僅か半年の放送に終わりましたが、円熟期の彼女のパフォーマンスを収めた、貴重な記録となりました。

64年にはデビューして間もない、娘のライザ・ミネリとステージで共演しますが、娘の人気に彼女が嫉妬したエピソードが残っています。

この頃にはシドニー・ラフトとも離婚。この後亡くなるまでに2回結婚しています(俳優のマーク・ヘロンとディスコ経営者のミッキー・ディーンズ)。

またこの頃、彼女が最も真剣に図ったとい自殺未遂を起こしています。幸い助かりましたが、彼女の身体に与えたダメージはかなりのもので、彼女を度々復活に導いてきた、歌声にも衰えが出て来ました。

それ以降もステージやテレビなど、精力的に活動しましたが、これ以降絶頂期を迎える事はなかったようです。

1969年の6月22日、最後の夫ミッキー・ディーンズと口論をし、彼が家を出て行った間に多量の睡眠薬を服用し、そのまま彼女は帰らぬ人となりました。享年47でした。

友人の間では自殺ではないかとも言われています。

彼女の遺体は長年の乱れた生活から、老人の様だったそうです。

葬儀の時、誰も彼女の死を早過ぎるとは思わず、寧ろ長く持ったと思ったと言います。

彼女は若い頃から性的な事に長け(当時役を得る為に、プロデューサーと寝る事も多々あったと言います)、性的嗜好もバイセクシャルでした。

また当時の著名人の中では珍しく同性愛者にも理解を示した事から、ゲイの間でも人気がありました。

今でもゲイの集会で「虹の彼方に」が流れるそうです。

またゲイを指すスラングで「ドロシー(オズ~で彼女が演じた役)の友達」という言葉があります。

史上初のゲイの暴動となった、「ストーンウォールの反乱」も彼女の死が遠因と言われています。

溢れる才能を持ち、歌って踊れて芝居が出来、おまけに頭の回転が早く、笑いも取れる人でした。

しかし彼女自身の生涯は壮絶で悲惨極まりない状況でした。

そういった部分も含め、彼女の存在は伝説になったとも言えます。

カーネギー・ホールの凄まじい歌声は何度聴いても、感動します。

主な持ち歌の中で
Over The Rainbow
I Can't Give You Anything But Love
Come Rain Or Come Shine
The Boy Netx Door
The Man That Got Away
Alone Together
How Long Has This Been Going On?
When The Sun Comes Out
Fly Me To The Moon
などは必聴です。


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Judy Garland
1922~1969