「あなたの最期の願いは何ですか」と問われたら、どう答えるだろうか。


 いつか、ドイツだっただろうか、ドキュメンタリー番組を見た。末期のガンに罹っている高齢の女性は、


「昔、夫と行った海に行きたい」


 その願いを叶えるべく、医師、看護師などのプロジェクトチームが結成された。彼女の体調管理に細心の注意がはらわれた。車の手配も整った。


 ある晴れた日、それは実現した。


 海辺に到着する。車椅子を押されて、波際にたどり着く。何も語らず、静かに海を見つめる。胸に去来するものは知る由もない。帰途に着く彼女の表情は穏やかにみえた。


 

 ドイツのドキュメンタリー、人生の残された時間が多くはない人たちへの企画は心打つものがあった。


 日本にもこのような施設や計画はあるのだろうか。誰もこの世を去る未練は抱えているに違いないから。


 ある友人は、語った。


「もし夫が他界したら、暖かい海の近くに越したい。美味しいお魚も沢山食べられるに違いない」


「それは、ご主人が健在の時には、実現できないのかしら」


「彼はこの街がとても気に入っているから、ぜったい引っ越しなどしないよ」


 伴侶が他界しないと実現できない願いが何とも切ない。


 彼女は悪気はない。


「夫が死んでしまったら」の仮定の話はときどき耳にする。自分だけがこの世に残されたときを考え、何かと思いをめぐらす。


 けれど、考え込んでしまった。何か合点がいかない。そして、ちょっぴり、切ない。


 伴侶が他界しないと実現しない願いに複雑な心境になる。



 互いに残された時間の過ごし方を譲らないのだから仕方がないのだが。「卒婚」とか「家庭内別居」とかはそう言った背景があるのだろう。



 「結婚は妥協の産物」は名言であると思う。

 

 でも、最期の願いが、あの世とこの世で実現するプランは立てないようにしようと思う。



(2023、3、7)