まずは、前の「旦那が倒れたその日」を読んでくださいね。こちらにございます。
http://blogs.yahoo.co.jp/suzu091/652614.html
ここからでもいいですが、念のため。

実は私は当時のことをほとんど覚えていないのです。
医者から説明を受けたあと、集中治療室で旦那と対面しましたが、まるで仮面ライダーの人造実験の場面みたく色々な機器につながれておりました。
そのまま放っておいたら命がなかったとも説明されて、私は後悔ばかりしていました。
ともかくも、この集中治療室では一日三回の対面時間が決まっており、
車の免許が無い私は、夜は病院に泊り込み、昼は帰宅することに決めて、
着替えなど取りに帰ることにしました。
しかし、私の姿は寝巻きのまま。健康サンダルにドテラを着ているのがまだ救いのイデタチ。
急遽、旦那の妹に迎えにきてくれるように頼みました。

さて。夕方病院に戻ると事態は急変していました。
いきなりストップしてインスリンを出していなかった膵臓が、間違った方へ活動を開始し始めていたのです。
つまり、膵臓が何故か自分の膵臓を消化している、膵炎でした。
先生の説明では、血液検査の数値から予測するとこれは重症急性膵炎になる。あらかじめ入院した始めからその処置はしてあるけど、一旦燃え始めたらなかなか消せない火事だと説明されました。
もちろん、3日で退院なんて出来るわけがない、3ヶ月は決定。下手すれば脳に障害が残る危険もあるし、致死率も70%はかたいとのこと。
そのころ、旦那の意識は朦朧としながらも戻ってはいましたが、まだ私が誰だかも判らない状態。
正直、病気そのものより、旦那が私と判って話が出来ないのにショックだったのです。

三日くらいして、旦那の意識はだいぶ戻り、私の事がわかったくらいから、旦那自身はすごく元気だった。
色々なものをつけられているくせに、本人曰く、
「今、逃げていいのなら走ってにげるで。トイレかて自分でいけるのに、管がたくさんあるし、体起こすのも寝返りも駄目動いたらいかんちゅうて、おむつまでされとる。出るもんも出えへんで。」
実はその日、正式に医者から重症急性膵炎の難病申請の紙を渡されていた。
実際、患者さんで動いたり暴れたりして、深刻なことになるケースもあるらしいのですが、
痛くないせいか我慢強い旦那が偉いのか、看護婦さんからも
「ちゃんとじっとしていてくれるのは、本当にすごい」とほめられるほどでした。
結局、膵炎はその後ステージ4まで進み、動かないでいるのでエコノミー症候群になったり、
のう胞が出来たり、ドレーンが抜けては入れなおしたり、腸に栄養入れる穴を開けたりしました。
2週間くらい集中治療室にいて、外科に移り、のう胞の膿を出す壷をぶら下げての外出許可なども出ましたが、そのころでもまだ食事は許されず、一日500mlまでのお茶のみ。
ひと月はそのままのう胞が減るのを待っていましたが依然と減らず。
やがてクリスマスの迎える頃、のう胞を胃のほうに繋げる手術を受けました。
正月がすぎて、2月を迎える頃、やっと、食事が出ました。
とはいえ、一粒も米が見当たらないおかゆと、出汁のお吸い物。まだその頃は腸からのご飯が本流でした。
内科に移動してからは、点滴からではなく、インスリンの自己注射になりました。
しかし腹には手術した後で刺せず、腕は両方点滴で無理な体勢が出来ないので、看護婦さんにお願いしました。
ちなみに私も打てるのですが、手荒いらしい。。。。
何度も絶食、粥汁を繰り返した後、三月、豆腐やプリンくらいなら固形物の許可がおりました。
その豆腐やプリンの美味しさは今でも忘れられないと言います。
三月末の頃に外泊許可がおりまして、同時に食事の固形度があがりました。
最初の外泊には、脂肪を抑えた膵炎用の食事指導を受けました。
最終的には五月に退院しました。それもかなり無理をお願いして。

実はこの頃、ノートに日記を書いていたのですが、途中から辛くて辞めてしまったので、記憶があいまいなのです。あれから旦那は元気に過ごしてはいますが、伴侶がいなくなるというのが、自分が思った以上に辛かったです。だから、せめて生きている間くらいは仲良く大切にしようと思ったのでした。

この病気で学んだことはたくさんあります。まずは、色々なものに助けられている実感があるのです。
お医者や看護婦さんももちろん、さまざまな人達に確かに守られている。
よく私達は独りでそれぞれ生きている錯覚をするけど、確かに知らぬ間に助けられて愛されている(照れ恥)。そして、知らぬ間に誰かを救っている。
だから、大切に、楽しく幸せに生きていこうと決めたのです。なんかくさいなあ。(照れ)

皆様長々とありがとうございました。