ふいに「エッセイ」と「私小説」の違いって何だろう、という疑問がよぎった。

検索スペースに、「エッセイ スペース 私小説」といれるのは言うまでもない。
便利な世の中だ。


すると某サイトで同じ質問をされている方が幸運にもいらっしゃった。

アンサーによると、

「エッセイ」はノンフィクション、
「私小説」は事実を元にしたフィクション。
森鴎外の「舞姫」は実話ですが 脚色されています。 この場合はエッセイではなく私小説という区分になります。


とのこと。


定かではないが、
ちょっぴり今テキトーな私の中では一応そういう事にしておく。

そして、
ろくに本も読まないのに時々書きたくなる私のアレはなんだろうという疑問が、先程の疑問の先駆者である事を言おう。


それについては、
エッセイでいたつもりでも途中で何やら脚色したくなるに違いないから、最終的には私小説になる可能性がある、という予想になった。

つまりは書き終わるまで分からない。

しかしそんな曖昧な狙いで書く事なんてありえるのだろうか。ありえない。

決めるのだ。


上記で、
私が「ろくに本も読まないくせに・・・」などと自虐的な表現をした事についてだが、

私小説作家は自分がダメな人間であることに気つ"いているし、それを売り物にもしているのでおおむね腰が低く、時としてくどいくらいに自虐的である。


ととある参考資料に記してあった。

"時としてくどいくらいに自虐的である"にちょっと笑ってしまったのはおいといて、

そういえば、私もどちらかというと、というか結構自虐的な人間である。

自分のダメさ、苦、を思い出してああだこうだするのはわりかし得意かもしれない。(紙の世界ではない世界では辞めようとしている。)

それにより私小説ならばわりかし書きやすいのかもしれないという結論だ。

しかしまあそんなことをただ書くだけでは私小説でもなんでもなく、たかが25年間生きた女性庶民の自己紹介にすぎないのだから、

面白いものにする才能かネタか発想かなにかが必要なのは定かである。

エッセイならばある程度の知名度かなにかががないと余計に難しそうでもある。

ゴーストライターなんて、面白そうだけどね。


そしてここになって、
自分が「よぎる」と「先駆者」、「されている」と「いらっしゃった」、「弁明」の意味を書き違えてないかが不安になる。

「書き違える」の意味さえ書き違えていないか不安になる。

どうか、それどころか・・・、と間違い探しはまだしないでほしい。

今私が読んでる本は何であろうか、
「正しい日本語」という本である。




最後にもう一つ疑問がある。

様々な本に、「日本文学には私小説というジャンルがある」というような形で説明されているのだ。

"日本文学には"?


日本独特のモノなのでしょうか。

不思議である。

その歴史は、もしかすると日本独自の国民性や美学が関係してくるのかもしれませんね。