齢五十となると、ふと、昔のことを思い出すことが、多くなる。

 

最近、なぜか、東京に上京した当日を、思い出す。

 

今から二十数年前のある日、僕は、福岡空港で、羽田行きの飛行機を待っていた。

 

横には、僕を見送りに来てくれた女性がいた。

 

“彼女”ではないけど、僕が、これまでの人生で一番好きになった女性だった。

 

僕ら二人は、ほとんど会話もすることなく、時間だけが過ぎていった。

 

搭乗時間になって、僕がふと「怖い」とつぶやいた。 

 

僕は極端な飛行機嫌いで、飛行機に乗ること自体、自殺行為に思えていたくらいだ。

 

飛行機が怖いから思わず声に出してしまったのだけど、彼女は、僕が未来を不安に思っていると思ったのか、

 

「なに言っとぅと!!」

 

と言って、僕の肩を、パン!と叩いた。

 

僕は目が覚めたように前を見て、そのまま飛行機に乗り込んだ。

 

「じゃあ」と一言だけ言って。

 

彼女の目も見ずに。

 

僕は照れていたんだ。

 

心理学でも、本当に好きになった人の前では、何も話せない、という。

 

当時の僕は、心理学は知りもしなかったけど、好きになった人の前では、何も話せない、ということだけは実感していた。

 

飛行機に乗り込んだ僕は、不思議なことに、飛行機に対する恐怖がなくなっていた。

 

それよりも、彼女と何も話しができなかったこと、本格的に付き合うことがれきなかったことに対する、後悔が、恐怖を遙かに上回っていたからだ。

 

彼女と出会ったのは、僕は大学2年生の時だった。

 

2年生といっても、大学入学一週間で登校拒否(?)になっていたので、大学生と名乗るのも詐欺ではないかと思うくらい、バイトをしながらフラフラと生きていた。

 

バイトで稼いだ金の大半を本に使い、ただひたすら引きこもって本ばかり読んでいた。

 

当時は「引きこもり」という言葉はなかったけど、明らかに「引きこもり」だった。

 

学校に失望し、人生に失望しつつあった僕は、毎日、死なずに生きるためのヒントを得ようと必死だった。

 

ほぼ、半ば、鬱状態に近かったと思う。

 

なぜ人は生きるのか、そんな答えのない問答を、ずっと、暗い小さい部屋の中でしていた。

 

僕は、そんな自堕落な生活を改善しようと決意し、思い切って、近所のスポーツジムに通うことにした。

 

一大決心だった。

 

運動音痴の僕が、生まれて初めて、自分の意志で運動をすることにしたんだから。

 

当時はバブル時代で、イケてるビジネスマンはジムに行く、という流行もあり、そんな気分にもなりたかったのだろう。

 

だから、ちょっとした思いつきで始めたわけだから、ムキムキの筋肉を付けたいとか、ダイエットしたいとか(当時は超スリムだったし)、そんな目標も目的も、なにもなかった。

 

目的もなく、ふらっと入ったジムに、彼女がいたんだ。

 

彼女はインストラクターとして働いていた。

 

僕より一つ年下だった。高校を出て、すぐに就職ようだった。(それは後で分かった)

 

ガラス張りのジムに初めて入った時、最初に見た彼女は、シルエットだった。

 

ガラスの向こうの光の影となって、長身の彼女は、さっそうと歩いていた。

 

歩くたびに、ポニーテイルの髪が、左右に揺れ、長い足のテンポ良い歩調に合わせて、髪がゆらゆら動く様を見て、僕の心は一気に奪われてしまった。

 

彼女は僕に近づき、カルテを差し出し、僕がやりたいメニューを質問してきた。

 

満面の笑顔だ。

 

今まで、こんな笑顔を見たことがない。

 

面長の顔に、太い眉毛。(今思えば、バブル当時に流行っていた顔だ)

 

笑顔の彼女の目は、素敵な弧を描いていて、大きな口元は、愛らしく口角が上がっていた。

 

笑顔の向こうでは、ポニーテイルが、かすかに左右に揺れている。

 

こんな最低の僕に、こんな最高の笑顔を与えてくれる女性がいるなんて…  (後で、それはビジネススマイルだと分かるけど、その時は、本気で天使に見えたんだ)

 

僕は、ジム初日から、彼女に夢中になった。

 

それから僕は、ほぼ毎日のようにジムに通った。

 

彼女に会うためだ。

 

背筋を伸ばし、長い足をさっそうと前に出して歩く姿。

 

ポニーテイルを揺らし、最高の笑顔で語りかけてくる、彼女を、見るため、だけに。

 

何ヶ月も、僕は彼女に声もかけられず、ただ見るだけのためにジムに通った。

 

今思えば、とんでもなく、僕はウブだった。

 

そんなある日、僕は思い切って、彼女に声をかけた。

 

何気ない話をしただけだったけど、僕にとっては天国に舞い降りるかのような、特別な時間だった。

 

それをきっかけに、僕は彼女と会話を交わすようになり、だんだん、彼女の人となりが分かるようになった。

 

彼女はジャズダンスをしているダンサーだった。

 

一度だけ、彼女の舞台を見に行ったけど、舞台の上で優雅に踊る姿に、また目を奪われたのを覚えている。

 

その舞台でも、ポニーテイルの髪が、揺れていた。

 

僕の毎日は、彼女を中心に回っていた。

 

頭の中は、100%、彼女のことしか考えていなかった。

 

彼女のことを考えすぎて、頭が破裂しそうになった、ある日。

 

僕は公衆電話からジムに電話をかけた。(当時は携帯電話がなかった)

 

受付の人に、「インストラクターの○○さんお願いします」と言って、電話口で待った。

 

その数分間が、この世の最後まで続くのではないかと思えるくらい、長く感じた。

 

彼女が出た。

 

「あ、あ、鈴木です」

 

と僕が言うと、

 

「え? どうしたとぉ??」

 

と聞いてきた、

 

僕は、そもそもなぜ電話をかけたのかも思い出せず、次に、とんでもないことを言ってしまった。

 

「好きなんだ」

 

「ええ??」

 

と彼女、

 

「だから、好きだと言ってるじゃないか!」

 

一瞬間が空き

 

「もう、こんなところでぇ」

 

と彼女。

 

今思えば、彼女の声は、驚いた反面、ちょっと嬉しそうな声だった。

 

でも、その時、僕は、大パニックの最中だった。

 

俺、何を言ってるんだ、俺、馬鹿じゃないか、俺、恥ずかしい、…

 

後悔のループが頭の中で無限に続き、僕はまた信じられないことをした

 

「じゃ!!」

 

と言って、電話を切ってしまったんだ。

 

もうパニックの100乗だった。

 

もう前後不覚。

 

それから、どうやって一日を過ごしたかも覚えていない。

 

僕の記憶からも抹消されてしまい、記憶喪失である。

 

でも、僕の記憶には、不思議な光景が残っている。

 

彼女とのデートだ。

 

僕は、ジムの近くのお店に誘い、彼女とデートをした。

 

今となっては、何がどうなっているか、思い出すこともできない。

 

きっと、何か、都合の良いことがあったのだろう。

 

気の毒に思った彼女が、慈悲の気持ちで付き合ってくれたのかもしれない。

 

その後も、数回、食事デートをした。

 

もう彼女は、ジムにいるインストラクターではなく、僕の横にいる彼女だった。

 

でも、彼女に指一本触れることができなかった。

 

とても好きすぎて、デートの時にも、まともな話しもできず、一体なぜデートが成立していたのかも、不思議だ。

 

覚えているのは、僕の支離滅裂な話しを、彼女が、例の笑顔で、ずっと聞いてくれている姿だ。

 

僕が一方的に告白したにも関わらず、最後まで、彼女の気持ちを確かめることはできなかった。

 

今でも、思う。

 

彼女は、僕のことを、好きだったのだろうか。

 

確かめる勇気は、その当時の僕にはなかった。

 

そんな宙ぶらりんの関係だから、彼女を「僕の彼女」と思うことはできなかった。

 

そんなある日、僕はちょっとしたことで、彼女に腹を立ててしまい、ジムにも通わなくなった。

 

そのちょっとしたことは、ちょっとした嫉妬だった。

 

ジムで、他の男と、親しげに話しているところを目撃したんだ。

 

今思えば、ただ接客していただけなんだけど、当時、若かった僕は、彼女が僕を裏切ったと思ったんだ。

 

僕はそれからジムを辞め、彼女に会うこともなかった。

 

2年の歳月が過ぎた。

 

僕は、大学を2年間休学し、いよいよ、あとわずかで休学の期限も切れ、復学するか退学するかの選択を迫られていた。

 

僕は、今さら大学に戻る意志もなく、東京に行くことを決めた。

 

東京に知り合いも友達もいない。

 

でも、遠い親戚がいる。

 

その親戚の家の一室を間借りさせていただく段取りをつけ、わずかな可能性にかけて、僕は東京に行くことにした。

 

東京に行って何をするかも決めていない。

 

ただ行けば、なんとかなるんではないか、という、半ば自暴自棄な感じの、根拠のない自信だった。

 

東京に行く日まで、あと一ヶ月、というある日。

 

僕は引っ越しの準備をしていた。

 

僕の実家は、南九州の宮崎だ。

 

宮崎から福岡に出てきていた僕は、一旦、荷物を宮崎に送り、宮崎に帰省して、その足で、東京に行くことにしていた。

 

荷物の整理をしていた、ある時、部屋の電話が鳴った。

 

電話に出ると、彼女だった。

 

2年ぶりに聞く声だった。

 

「どうしたの?」

 

と聞くと、

 

「何してるかな、と思って…」

 

と弱々しい声で言った。

 

僕は、胸の奥から熱いものが湧いてくる気持ちを抑えて、冷静に、

 

「東京に行くんだよ」

 

と、僕が決意したことを話した。

 

すると彼女は、

 

「私、見送りに行く!!」

 

と言った。

 

僕は複雑な思いだった。

 

僕は、その時まで、ずっと彼女を忘れたことがなかった。

 

ずっとずっと、考え続けていた。

 

でも、変なプライドが、僕を押さえつけ、振り返ることを拒否していた。

 

だけど、一本の電話で、僕が、彼女を激しく好きだったことを自覚させられた。

 

なのに、せっかく再会できるのに、その時は、別れの時になる。

 

元気に彼女が「見送りに行く!」と言った言葉が、とてつもなく切なく、悲しかった。

 

彼女は僕と別れることが嬉しいのではなく、そうではなく、そういう意味で言っているのではない、ということは分かっていた。

 

でも、とても非情な言葉に聞こえてしまった。

 

僕は泣いた。

 

上京当日、僕は、宮崎の実家にいた。

 

親に、

 

「これから福岡に行く。福岡空港から、東京に行く」

 

と言うと、親はビックリしていた。

 

「なんで宮崎空港から行かんとか??」

 

僕は、福岡の友人と挨拶がしたいから、と言い訳して、電車に乗って福岡に向かった。

 

ここに至るまで、親との壮絶な喧嘩と葛藤があったが、それはまたの機会に書きたい。

 

僕は、福岡空港に着いた。

 

向こう側に、見たことがあるシルエットがあった。

 

長身で、すらりとした姿。

 

彼女だった。

 

2年ぶりに会う彼女。

 

髪はショートヘアになっていた。

 

ジムも辞め、空港の近くの会社に勤めていた。

 

彼女は僕に靴下のプレゼントを渡してくれた。

 

今日、もうお別れなのに、プレゼントなんていらない…

 

僕は複雑な気持ちだった。

 

今日で、本当に、永遠に、会えなくなるのに、久々に会えたのに…

 

また頭が真っ白になり、パニックになっていた。

 

……

 

東京に着いて、親戚の部屋で間借り生活が始まって数ヶ月。

 

寒い冬が訪れた。

 

九州しか知らない僕にとって、東京の冬は厳しかった。

 

お金がない僕は、部屋にエアコンも付けられず、部屋の中で吐く息が白くなっていた。

 

バイトで少しずつお金を貯め、やっと電話を引くことができた。

 

当時は携帯電話がなかったので、固定電話を引かなければ、世間から完全に孤立してしまうことになる。

 

バイトの連絡も、固定電話がなければ、どうにもならなかった。

 

やっと、自分専用の固定電話が付いて、数週間過ぎた頃、一本の電話が鳴った。

 

バイトの連絡かと思って電話に出ると、聞き覚えのある声が聞こえた。

 

彼女だった。

 

「え?え? どうしたの?」

 

と、また半ばパニックになって聞くと

 

「何してるかな、と思って… 元気かなと思って…」

 

と言う。

 

どうやって、この番号が分かったのだろう。

 

きっと、その時の電話でも聞いたのだろうと思うけど、もう何を話したか、完全に覚えていない。

 

でも、彼女が電話をかけてきてくれた嬉しさと、それまでの寂しさが重なり合って、僕は冷静さを失っていた。

 

僕は、強がっていた。

 

福岡空港で、僕の肩を叩いて東京に送り出してくれた彼女。

 

でも、僕はバイトばかりしていて、先も見えず、ただ漫然と毎日を過ごしていた。

 

彼女の電話によって、そんな僕が、僕は急に恥ずかしくなった。

 

でも、弱いところを見せたくなかった、強い自分を演出したかった。

 

「東京は寂しくない。いつも楽しい。東京は凄いよ」

 

とかなんとか言って、一方的に話し続けた。

 

彼女の声が、どんどん寂しそうな声になるのを感じた。

 

僕は何を話したか覚えていない。

 

そして、また一方的に、電話を切ってしまった。

 

それっきりだ。

 

それっきり、今に至るまで、それっきり。

 

結局、彼女は、僕を、どう思っていたのだろうか。

 

僕は、とんでもないことを、彼女にしてしまい、傷つけてしまったのではないだろうか。

 

今となっても、それを思い出すんだ。