矢波光一が運ばれたサン・クリストバン総合病院。

一時間前まで9秒の世界を駆け抜けていたアスリートとは思えないほど無惨な姿だった。

既に矢波は息をしていなかった。いや息が絶えたのは100メートル決勝のトラック上だった。

病院には日本国首相の条上宗太郎が駆けつけていた。

条上首相も競技場で観戦していたのだ。

しかし、条上首相がオリンピック会場に赴いたのは矢波光一を応援するためではなかった。

条上首相は違う目的でリオデジャネイロに訪れていた。

それをカモフラージュするため、矢波の応援にかこつけて競技場にいたに過ぎない。

条上首相にとっても全く想定外の出来事で、国民感情を鑑みて矢波を見舞う体裁を整えたのだ。

だが、医師から矢波が走行中に絶命した可能性があり、しかも心筋梗塞等の可能性が極めて低く、感染症の可能性もないことを聞かされると、条上首相の顔色は一変した。

条上首相はほどなく黒塗りの車に乗り込みすぐに病院から立ち去ってしまった。

条上首相と共に訪れたJOC会長の長田勇は呆然とそれを見送っていた。

すると突然、医師が長田を大声で呼んだ。

驚いて駆けつけてみると、医師が激しく取り乱しているようだった。

ポルトガル語が分からない長田は状況を把握するまで時間がかかった。

矢波が消えた。

50億人が目撃し、国際的大ニュースとなった矢波が忽然と消えた。

これがYANAMI事件と呼ばれ、後にシャットダウン・ディジーズ被害者0号と呼ばれる矢波の遺体消失事件である。

シャットダウン・ディジーズは感染しない。

誰が発症するのか分からない。

原因も分からない。

しかし、発症すれば確実に死をもたらす。

そして、これは暗号なのである。



(つづく)