ある日、道を歩いていると、道端の桜の木の周りを、小さな虫が飛んでいた。


その名も知らない虫たちは、50匹ほどが円を描きながら飛んでいた。


私はその横を、虫を避けながら歩いていこうとした。


その瞬間、私は胸を強く押さえられるような感覚を覚えた。


「この虫たちは、自分たちが僅かな命だと分かっているのだろうか」


小さな虫たちを横目で見ながらそう思った瞬間、私たち人間の命も、この小さな虫と同様、僅かな命しか与えられていないのだと、気付いたのだ。


数時間の命しかない虫と、数十年の命の人間。


何の違いがあるだろうか。


途方もない時間が流れるこの世では、もうすでに150億年の時間が過ぎているという。


これからも、何百億年、何兆年、いや無限ともいえる時間が流れていくだろう。


その中の数十年とは、なんとも一瞬の出来事である。


振り返れば人生のある程度の時間が、もう過ぎている。


振り返れば、それも一瞬であり、幻のようである。


その幻のような出来事が、目の前の虫たちの一生と比べて、どれだけ違いがあるというのだろうか。


途方もない時間が過ぎていくこの世では、虫の一生であれ、人間の一生であれ、さほどの差もない時間である。


ならば、生とは何なのか、そして死とは何なのか。


また、私の頭に、5歳の頃に体験した出来事が蘇るのである。


宮崎の田舎にある私の実家は、古く朽ち落ちそうな家であった。


その家の裏には、梅の木があった。


私が5歳の頃、梅の木に青々とした実がついていた時、私はその実をじっと見つめていた。なぜ見つめていたのかは、もう分からない。


そして、木の根元を見ると、枝から落ちた梅の実が、半分腐りながらそこにあった。


その時、私は恐ろしい何かを知った感じがした。


その恐ろしい何かから逃げるように、家の中に駆け込み、体を小さくしていた。


母が近づいてきた。


私は母に言った。


「お母さん、お母さんは死ぬのが怖くない?」


私は死という概念を、あの梅に感じたのだ。


母は言った。


「怖くないよ。だってみんな死ぬんだから」


突飛な質問を発した我が子に対しての、精一杯の母の答えだった。


しかし、その答えに、私はさらに恐怖を覚えるようになっていた。


みんなが死ぬことを知っているのに、どうして平気で生きていけるのだろう。


5歳の時、私は一番避けなければいけない問いを持ってしまった。


決して、解けるわけがない問い。


この問いは、私が生きている限り、私を追いかけることになるということは、その時には分からなかった。


この問いは、私の青春時代を暗黒にさせるほどの力があった。


誰もが若い力を発散している横で、私は「どうして人間は生きるのか」と自問自答する毎日を過ごしていた。


どれだけ時間を費やして自問自答したところで答えは見つかるわけはない。


しかし、若い力を自分の内面に向けてしまった私は、その問いを全速力で追いかけねばならないほど、必死になっていた。


そうすることで、死の恐怖から逃げようとしていたのだと思う。


答えは得られない。


人に死があるのに、なぜ生きるというのか。


死はすべてを無に帰してしまうのに、なぜ生きる意味があるのか。


生きなければならないとすれば、どんな意味を見つければ良いのか。


私は答えを見つけることに急ぎ、自分の中に「神」を見いだそうと試みた。


この世を創造した神を見いだすことで、私の問いは解決できると考えたからだ。


私はいかなる宗教の神も信じることなく、自分が見いだした神を思索の中心において、問いの答えを見つけようと考えた。


そして20年間、その神と問いの思索を繰り返し、結果的に神を問いの答えにすることが困難であることを知るようになる。


神は全てを知っている、と私は考えた。


しかし、神は全てを知っているように思えないのだ。


神が全てを知っているなら、私がこれから何をするかも知っていることになる。


ならば、私の人生は、すべて神が知っていることになる。


私の人生の全てを知りうる人がいたとして、その中で生きていく事に喜びを感じられるだろうか。


梅が地に落ちて腐っていくことも、桜の木の近くて舞っている小さな虫たちの運命も、神がすべて知っているからといって、何になるのだろうか。


神はそれを知っていて、何か意味があるのだろうか。


そうすることの意味が、私には全く分からないのである。


神は未来を知ることではない、としたならば、未来も知らない神とは、もはやそれは神と言えないのではないか。


神が偉大なる傍観者であるとするならば、その神に、私は「生と死」を問うことはできない。


人が悲劇に出会うとき、「神様はいないのか」と天に叫ぶ時がある。


その神は、悲劇を避けることを教えてくれなかったからだ。


愛する人の死を救ってくれなかったことを、神に聞いているのかもしれない。


神は、私たちの望みを叶えてくれる優れた便利屋ではないことを、悲劇に出会うときに気付かされる。


私は思うのである。


神はおそらく、私たちが思うような存在ではない、と。


宇宙や、地球、生物のような複雑な構造を、破綻なく、自然に組み上げていった高度な知性を「神」と名付けても、何ら違和感はないことは私にも分かる。


しかし、私たち人間の感覚に似た価値観も含有するような知性ではない、と私は思う。


人間の知性で理解できる範囲のところにいない存在だと。


ならば、私の頭で理解できそうな「神」は神ではない、と私は決めたのだ。


脳が認知できるものが世界である、という前提でいえば、もはや神は私の認知を超えている。


だから、私の脳で認知できる世界には、神はいない、のである。


それは小川を眺める人に例えることができる。


小川を泳ぐ魚にとって、世界とは小川の中である。


小川の外は、魚にとって死の世界である。


小川を泳ぐ魚にとって、小川の外の世界は意味がない。


しかし、その魚がふと疑問に思ったとしよう。


「なぜ、いつもこの世界は一方的に流れているのだろうか」


小川の流れはいつも同じである。


魚がその流れに疑問を感じたとしても、それを知る術はない。


小川の外にいる人には、なぜ小川が一方方向に流れるかが分かる。


小川の外の人は、魚を眺めることができるが、魚は人の存在も分からず、理解もできない。


人は魚の価値観を遙かに超えており、生きている世界も異なる。


小川を「時の流れ」、魚を「人間」、小川の外の人を「神」とするならば、この例えの意味が分かるだろう。


人間は、「なぜ時は過ぎていくのか」が分からない。


神からは、「なぜ時が過ぎるのか」が分かる。


神は人間の価値観や知性を遙かに超えている。


小川の中の世界で生きる人間の知性では、とても神を理解することはできない。


しかも神は小川を眺めているのだ。


魚が何をしているかが分かるが、神が小川に手を入れて魚の運命を変えようとはしない。


魚は魚の知性の中で、自分の行き先を選択するのみである。


私は、神を理解することは諦め、自分の行き先を自分で選択するしかない、という結論に至った。


私が理解できる世界に、神はいないのだから。


しかし、私の生涯の問いは残されたままである。


死とは何か、という問いである。


小川の例えと同じように、この問いの答えも小川の外にある。


人は死について恐怖するが、生まれる前については恐怖しない。


生まれる前にも無限ともいえる時間が経過しているのだ。


それは死と同じ世界である。


その世界をすでに超えてきたにも関わらず、私たちは死について恐怖している。


生まれる前も、死んだ後も、同じ状態である。


誕生する前に戻る、と考えれば、死の恐怖は、概念的に消えていく。


それが消えないのは、執着のためだ。


「もっと何かをしたい」「もっと何かを得たい」という欲求があるからだ。


それがあるから生である、とも言える。


死の向こう側は、もはや人間の知性を超えてしまい、知覚することも理解することもできない。


しかも、私を都合良くコントロールしてくれる神はいない。


私は思索を重ねた結果、一つの結論らしきものを見つけた。


神と死について考えることは、小川の外を考える魚に似ている。


それは意味がないと、早く、悟る必要があるのではないか。


考えても仕方がない、と考えを止めてしまうことこそ、究極の悟りではないか、と思うようになった。


だからこそ、生きている時に起こる出来事は、人間だけが楽しめる愉快な出来事だと楽しんだ方が、思い切りのいい人生になる、と。


小川の中で、小川の外を気にして泳ぐことを忘れる魚になるよりは、外を気にせず、小川を楽しく泳ぎ切る魚でいるのが良いだろう。


どんなことが起ころうが、それは小川の中の出来事である。


小川の外の人は、それは所詮小川の中の話ですよ、と言うだろう。


桜の木の周りを飛んでいた小さな虫は、私を知り得ないだろう。


彼らの世界観では、私を理解できないはずだ。


ならば、私が虫の世界観を理解したつもりになることも間違いである。


彼らが「僅かな命」であることを知っているかどうかという問いは、所詮、私の価値観である。


彼らは、彼らの小川の中で、楽しんで生きているだけなのだ。


小川の外を忘れ、小川の中を楽しむことこそ、生と死を理解する姿勢なのだろう。