映画 GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊より 草薙素子のセリフ


人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ。


他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる掌、幼かった頃の記憶、未来の予感・・・それだけじゃないわ。


私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それら全てが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして、同時に私をある限界に制約しつづける


・・・・・・


私みたいに全身を義体化したサイボーグなら誰でも考えるわ。


もしかしたら自分はとっくに死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないかって。

いえそもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。


 (お前には脳もあるし、ちゃんと人間扱いされているじゃないか。という相棒バトーの反論に対し)


自分の脳を見た人間なんていやしないわ。

所詮は周囲の状況で、私らしきものがある、と判断しているだけよ。


もし電脳それ自体がゴーストを生み出し、魂を宿すとしたら。

その時は、何を根拠に自分を信じるべきだと思う?



全身を義体化(サイボーグ化)した公安部隊が活躍する近未来アニメ映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の主人公・草薙素子のセリフである。


素子は脳以外を義体化した女性。正確に言えば、脳も一部電脳化されている。


治安維持の為、超人的な活躍をする一方、「私とは何か」を自問自答する。


映画では、脳に架空の記憶を埋め込まれた容疑者が登場する。


天使のようなかわいい娘がいる家庭を築いている、という疑似体験を脳に埋め込められた容疑者は、自分が本当は「独身であり結婚もしていない」、ことを認めることができない。


彼にとっては娘のいる幻の自分が、「今のわたし」という現実であるからだ。


素子もまた、自分ももしそうだったとしたら、と考える。


仮に疑似体験を埋め込まれた電脳だけの存在だとしても、それが疑似体験であるということを自分では証明できないし、実際に人間として生きている、ということすら証明できない。


とすれば、私は何なのか?  生きているのか死んでいるか?  存在しているのか、していないのか?


これは、この世を生きる私たちにも問いかけられる設問である。


一体自分とは何なのか、と問う時に、それを立証してくれるのは、自分をとりまく環境であり、自分の記憶であるわけである。


その記憶も、自分をとりまく環境なしにはありえない。


つまり、「わたし」以外の存在によって、「わたし」が成り立っている、という縁起の考えに通じるのだ。


たとえそれが、疑似体験をもとにした記憶であったとしても、それは「わたし」を定義してくれる唯一の証拠であり、それから逃れることはできない。


では、疑似体験という記憶も、脳の中で活動している電気パルスと脳神経の産物であるとするならば、「わたし」の本当の記憶も電気パルスと脳神経の産物であるのだから、それを区別することに意味があるのか、ということになる。


大局に考えるならば、それがどんな記憶であれ、それによって「わたし」を定義できるならば、それは「わたし」にとって正しいことである、と言える。


で、翻って考えるならば、「わたし」を定義できるならば、どんな記憶でも良いことになり、「わたし」に都合がよく、自分で記憶を書き替えることさえ許されるのではないか。


事実、「今のわたし」を説明しやすいように、私たちは常に過去の記憶を書き替えている。


「あのとき、あの辛い経験をしなかったら、今の自分はいない」といえる「今のわたし」も、その当時は、「こんな思いをするのは、あの時、あの選択をしたからだ」と思っていた、ということがある。


つまり、私たちは常に「今のわたし」の説明をするために過去の記憶を使い、そしてその都合によって書き替え、疑似記憶として記憶しなおしているのだ。


記憶さえも、無常なるものである。


そこで立ち返ると、「今のわたし」を定義できる記憶も無常なるものであるならば、「今のわたし」も無常なるものである。


結果的に、仏教の教えである、「無常なる存在」という概念に帰着する。


ゆえに、現代を生きる私たちに救いをもたらす考え方として、「過去からの呪縛」からの解放を説きたい。


「今のわたし」を説明するとき、過去から今にいたる刹那の出来事も、すべて自ら定義していい、のだ。


どんな悩みであれ、原因となった過去は、私たちの心で書き替えることができる。


幸せを自由に記述できる、という意味で、私たちは自由なのである。



※父が浄土真宗大谷派の門徒であり地元の門徒代表のため、僕は子供の頃から仏教、とりわけ親鸞聖人の教えを受けてきた。僕の魂の一部は、間違いなく仏教の教えでできていると思う。しかし、仏教そのものの本質について、自ら探究することがなかった。ここでは、仏教の教えとは何なのか、ということを僕自身の視点で探究していくことを目的としたい。故に、仏教(各宗派)との教えとは異なることを述べることもありますが、何卒ご容赦いただきたい。あくまでも自分の考えの整理としての記録である。