※父が浄土真宗大谷派の門徒であり地元の門徒代表のため、僕は子供の頃から仏教、とりわけ親鸞聖人の教えを受けてきた。僕の魂の一部は、間違いなく仏教の教えでできていると思う。しかし、仏教そのものの本質について、自ら探究することがなかった。ここでは、仏教の教えとは何なのか、ということを僕自身の視点で探究していくことを目的としたい。故に、仏教(各宗派)との教えとは異なることを述べることもありますが、何卒ご容赦いただきたい。あくまでも自分の考えの整理としての記録である。



「仏教聖典」(仏教伝道教会刊) 第二章第一節 「変わりゆくものには実体がない」より


 身も心も因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから無常なものである。


 もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。


 王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。


 それと同じく、この心にも実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

 もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。


 この身は永遠に変われないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。

 無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも苦しみであると答えるに違いない。


 このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

 心もまた、そのように無常であり、苦しみであり、実体ではない。



 これは仏教の基本的な教えである「因縁生起」の考え方を説いた一説である。


 この世には絶対的なものはなく、因縁=「外的な環境の影響によって、それがそれであると認識される」のだから、外的な環境が変われば認識も変わり、価値も何もかも変化していく、という考え方だ。


 因縁が変われば実体(と思われているもの)も変化するから、「これが私である」という考え方もうつろいやすく、実体はない。


 自分は人生を完全にコントロールできる、と考えることは間違っており、自分の思いのままにならないのが人間の姿である、と説く。


 さらに、「現在のわたし」を決定的に考えることも、間違いである、と説いている。


 つまり、人生は常にうつろいやすく、常ではない(無常)ことが当たり前であるから、何事も断定的に考えることは間違いである、という意味だ。


 仏教における空の思想を現していているが、この思想は私たち現代人にも“光明”を与えてくれる。


 「今のわたし」がいかなる状況であろうと、それは無常であり、因縁によってまた変化していくものである、と考えることで、人は常に希望を持つことができる。


 因縁とは、観察者によって評価が変化することを意味する。

 

 たとえば、「今のわたし」が誰かに最悪の評価を受けているとする、しかし他の人には全く反対の高い評価を受けているとする。


 この場合、ほとんどの人が、自分が気にする人の評価に価値を置くものだが、仏教の教えてでは、それが正解である、とは言えない、と説いているわけだ。


 状況によって人の評価は変化し、環境によっても変化する。


 時代が変わって価値観が正反対になることもあれば、他の環境にいけば白が黒になることもある。


 だから、人の評価も実体がなく、その評価を気にする「今のわたし」も実体がないのだ。


 つまり、「今のわたし」が価値あると考えている行為をしているなら、人の評価がどうであれ、その思いを貫いていけばよい、とういう考えに繋がると思える。