大好きなおじいちゃんとのお別れ | suzuranの日日是好日~♪

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おじいちゃんは、1999年3月に肺がんで亡くなった。
1997年秋に日本に留学に来た私は、その時、日本で留学中で、途中で1度も一時帰国をしていなかった。

お医者さんだったおじいちゃんは、母方の祖父が肺がんで亡くなってから(私が中学生の頃)、よく自分も同じ病気でなくなるだろうと言っていたそう。

亡くなる年の1月に病院で末期の肺がんと診断され、入院治療を勧められたようだが、断固として退院をし自宅に帰ると言い張っていたという。

日本に来てから、時々国際電話で家に電話をしていたが、おじいちゃんは電話だとよく聞こえないとほとんど電話には出なかった。でも、亡くなる年のお正月に電話した時は、おばあちゃんに電話を変わってほしいと自分から頼んで私とちょっと話をした。「体には気を付けて」というような話をされたように記憶する😥
なにか予感がしていただろうか…

おじいちゃんが亡くなるちょっと前ぐらいからだっただろうか…
なんの理由もなく涙が出るということがしばらく続き…
おじいちゃんが亡くなる日のお昼頃に家に電話を掛けていた…
電話を掛けると、父親が電話に出て、おじいちゃんがもう危篤状態で、今日は越せないだろうと言っていた。その話を聞いて、中国に一時帰国すると言うと、父親は帰ってこなくていいと言っていた。

でも、大好きなおじいちゃんの最後は絶対見送りたいと思い、急いで翌日の航空券を予約した。

地元までの直行便がなく、地元から500キロほど離れた大連行きの便だったが、大連に着いのが夕方だった。
空港から駅に行き、地元までの列車やバスを調べたが、翌日朝(地元では三日葬が普通)の出棺まで間に合うのがなく、駅前でタクシーの運転手に聞いて回ると、みんな片道だけなら行かないと言っていた。
でも、1人親切な運転手さんが瀋陽までではないが、大連と地元の中間地点の町から来ていて、これから地元に戻ると言う若い男性2人の方に話を持ち掛けてくれた。
話し合った結果、中間地点まで行く女性の方1人と私を乗せてくれることになった。私は700元(今のレートなら約1,4000円)を払うことで話がついた。

夜に、それに素性もなにも知らない見知らぬ男性2人と、途中からは1人のみで、怖くなかったわけではない。途中、高速入り口で一度下車した際は、その運転手たちに携帯電話を借りて家に電話を掛け、彼らが聞いてるところで父親に車のナンバーを読み上げ、どれだけ効果があるか分からない保険を掛けておいた。

でも、何より、おじいちゃんが絶対守ってくれると、心の中では固く信じていたので、それほど怖くなかった❣️🙏🦋

そして、夜中に無事に田舎の家まで送り届けていただいた。お陰で、おじいちゃんの側で短い一晩を過ごし、見送ってあげることができた🙏😭

その後、帰りの便の航空券がなかなか買えず、実家に1ヶ月ほど留まった。
多分おじいちゃんが心配して、一年あまり外国で1人で頑張った疲れをゆっくり癒して戻るようにと心掛けてくれたかもしれないと思う🙏💕

※写真は、当時使用したテレフォンカード(すべてではないが)