こんにちは、絵描きの円です
この数週間キリンさん関連で色々と書いてきました🦒
ブログに書けるってことが嬉しいです。
言語化だいすき。
読んでくださった方、リアクションをくださった方、ありがとうございます。
しかし、読んでもらっといてなんだけど。
もっともらしく考えを述べたり、行動の理由を語ったりしてますが、実はこれって全部ウソだよなと思ったりもしています。
「思考」とか「エゴ」とか「顕在意識」とか呼ばれてる部分が自分を納得させるために作った、見せかけのストーリーでしかないな、と。
心理学的決定論て聞いたことありますか?
「わたしの意志」というものは存在しない。
行動が先にあり、意志は行動のあとから「それはわたしがやった」と思い込んでいるの幻のようなものだ、という考え方のことです。
心理学者の妹尾武治さんの説で、わたしはこれをかなり信じています。
「未来は決まっており、自分の意志など存在しない」妹尾武治
この本におもしろい実験がのっています。
人が体を動かす前に脳内ではある電気信号が出ていることがわかっています。
科学者たちは
「動かす意志」→「電気信号」→「行動」
の順であらわれるものだろうと推測し、これを裏付けるべく実験をしました。
どんな実験かは長くなるのでここでは書きませんが、実際に計測してみたところ結果はこうでした。
「電気信号」→「動かす意志」→「行動」
つまり、わたしが今、右手を上げたとするでしょ。
自分では「上げよう」と思って上げた、と思っている。
でも実際は「上げよう」という意志より先に脳内で右手を上げる準備の電気信号が走っているんです。
意志は後で、行動の方が先に決まっているということです。
…となると、右手を上げると決めたのは誰だ?ってなりますよね
こういった実験をもとに
俺たちって実は自分で何も決めてなくね?
「自分で決めて行動した」ってのはウソじゃね?
むしろ「自分」も「意志」も無くね?
という立場をとっているのが本書です。
この流れはスピリチュアルにもあって、ノンデュアリティと呼ばれています。
「わたしはいない」というやつ。
わたしが認識している「わたし」はエゴの幻。
本当のわたしは宇宙全体(あるいは神・愛)で、出来事には良いも悪いも無くて…みたいなそういうあれです。
この考え方も好きです。
何が言いたいかというと。
わたしがどんなに「過去にこういうことがあって、それが理由でこんな気持ちになって、こういう行動をして…」って説明しても、それも全部単なる思い込みでしかないのかも、って考えているのです。
例えば告白にしても、わたしは「自分らしくいたかったから伝えた!(ふんす!)」って思ってます。
でも、最初に「告白する」って電気信号を出したのは自分の意志じゃない。
だから、伝えた理由も後からつけた自分が納得できるストーリーに過ぎない。
「キリンさんを好きになる」だってわたしの意志じゃないです。
好きになった理由なら挙げられるけど、それも自分が納得できる後付けなんです。
どうして彼だったのか、本当のところは絶対に分かりません。
じゃあ、何でわかってないことをわざわざ言語化してブログに書いたりするのか、っていうとね。
書くとスッキリするから。
組み上げたストーリーを頭の中に入れておいたままにすると、ごちゃごちゃグルグルして苦しいのです。
それを言葉にして外に出すと「ほうほう、わたしはこんな風に考えてるんだね」って客観視できて楽になる。
ストーリーに巻き込まれなくなって、起きたことをフラットに見られるようになるんです。
(「ブログに書く」すらも自分の意志じゃないんだろうけど、あんまり考えると頭おかしくなりそうだからやめとこ?)
起きること自体に意味は無い。
出来事も、自分の行動も、感情も。
あったとしても、壮大な流れのほんの一部しか見えないわたしには全体像が分からない。
でも、見える範囲のそこにどんな解釈やストーリーを与えていくかが個性だとも思ってます。
そういうものを美しくとらえて表現できる人を芸術家と呼ぶんだろうな。
余談ですが、キリンさんにもう会えないとわかった直後にリリースされたのが米津さんの「さよーならまたいつか!」でした。
うえぇん!ありがとう〜ってなりました。
米津さんの視点はいつも変わってて偏ってて決してポジティブとは言えないけど、美しくてとても好きです。
エゴとか思考とかって悪者にされがちだけど、個人の狭い視野だからこそおもしろいって面もあると思うのです。
ではでは、読んでくれてありがとう。
またね