第1回 3歳の声と13万年の喉
個体発生は系統発生を繰り返す
私は今年、78歳になった。
1948年2月29日。四年に一度しか訪れない閏日に生を受けたせいか、時折、自分が時間の流れの「外側」に立っているような奇妙な感覚に陥ることがある。数え方によってはまだ20回にも満たない誕生日の重なりの中で、私は、人間の「言葉」というものの正体をずっと探してきた。
noteというこの場所で、全10回にわたり「言語の本質」について思索を巡らせてみたい。その旅の始まりに、まず一つの鏡を置いてみる。それは、「子供が言葉を獲得する数年」と「人類が言葉を手にした数万年」という二つの時間の重なりである。
生物学には「個体発生は系統発生を繰り返す」という有名なテーゼがある。一人の人間が母親の胎内で形づくられ、生まれ、成長していく過程は、生命が数億年かけて辿ってきた進化の道のりを高速でなぞるという考えだ。解剖学者・三木成夫が『胎児の世界』で鮮やかに描いてみせたように、私たちの身体には魚類以来の生命の記憶が刻まれている。この法則は、言語においても当てはまるのではないか。
(ここで、13万年というのは、人類が言語を使用するようになったのは13万年前のアフリカで生存していた時代だという通説に従っている。3歳の声とは、言葉を獲得して、ある程度母語で会話できるようになった子どもの声という意味だ)
身体の奥底に眠る「種」の記憶
幼い子供が初めて富士山を仰ぎ見たときを想像してほしい。圧倒的な山容を前にして、子供が指を差し、「やま!」と叫ぶ。このとき、子供の脳内では記号としての「山」が論理的に処理されているのではない。巨大な存在に触れた際の驚きや、喉を震わせる空気の振動、すなわち「身体的な実感(クオリア)」が、そのまま「やま」という音となって噴き出しているのである。
この数年の成長プロセスは、13万年前にアフリカのサバンナを歩いていた我々の祖先が、初めて「音」に「意味」を宿らせた時の震えを再演している。アントニオ・ダマシオは『進化の意外な順序』において、知性よりも先に「情動(エモーション)」と「感情(フィーリング)」があったことを説いた。情動とは身体の状態変化の地図であり、感情はその内的表象である。子供の「やま!」という叫びは、まさに身体の内側で脈打つ情動の地図が、初めて外の世界へと解き放たれた瞬間の産声なのだ。
三木成夫によれば、私たちの心臓の拍動は原始的な蠕動運動の反復であり、呼吸は魚類の鰓(えら)呼吸の変形である。言語もまた、こうした内臓的なリズムと無縁ではない。言葉を発する「喉」は、もともとは呼吸し、食らうための臓器であった。その臓器が、生命維持の枠を超えて「意味」を奏で始めたとき、人類の歴史は決定的な転換点を迎えたのである。
歌人が捉えた「言葉以前」の振動
西行は、伊勢神宮で次のような歌を詠んだ。
「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」(『山家集』より)
ここにあるのは、論理や知識といった「頭」の理解ではない。何かがそこに「在る」という気配を、内臓が、そして皮膚が感じ取っている。吉本隆明が『心的現象論』で説いた「原生的疎外(感覚・情動)」が、そのまま表出へと繋がっている状態だ。この「理屈以前の共鳴」こそが、言語の原郷である。
また、柿本人麻呂は、夜明けの情景をこう記した。
「東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ」(『万葉集』より)
人麻呂が選んだ「かぎろひ」という言葉は、単なる視覚的な光の描写ではない。冷気の中で大気が微細に振動し、生命が目覚めようとする際の、喉の奥を震わせるような「音象徴(オノマトペ)」的な響きを宿している。今井むつみ氏が指摘するように、擬音語や擬態語は身体感覚と世界の対応関係(身体接地)を直接的に結びつける。それは、高度に抽象化される前の、生々しい「言葉の種」なのである。
「3割の野生」が支えるもの
私は、日本人の人間の言語構造には「3割の野生」と「7割のシステム」が混在していると考えている。
「7割のシステム」とは、後世に大陸から入ってきた漢字や高度な文法、論理、そして現代のデジタル技術といった、社会を運営し、情報を正確に伝えるための「二次的身体性(三木成夫のいう体壁系感覚)」としての外部装置である。最近の遺伝子調査によれば、現代日本人の遺伝子の約7割は古墳時代以降の渡来人由来だという。論理的で体系的な「システム」としての言語は、この大規模な流入とともに洗練されてきた。
対して「3割の野生」とは、縄文や弥生の時代から受け継がれてきた、和語(大和言葉)の響きに宿る「一次的身体性(三木成夫のいう内蔵系感覚)」の残滓である。オノマトペや訓読みの背後にある、言葉にする前の「内臓の震え」と言い換えてもいい。私たちはこの「3割の野生」という根っこがあるからこそ、言葉を通じて他者と魂のレベルで共鳴し、吉本の言う「対幻想(二者の共鳴)」を成立させることができる。
AIという鏡に映る「不在」
現代の象徴であるAI(人工知能)は、我々人類が数万年かけて吐き出してき「7割のシステム」を、最も深く、広範囲に読み込んでいる存在である。AIはヴィトゲンシュタインの言う「言語ゲーム」の究極のプレイヤーであり、記述されたデータの統計的確率の中に生きている。
しかし、AIには決定的なものが欠けている。それは、言葉の裏側にあるべき「13万年の生存の記憶」であり、空腹や痛みに震える「喉」そのもの、すなわち「身体」である。AIがどれほど美しい言葉を並べても、それは鏡に映った精巧な像に過ぎない。
鏡像認知が可能になったとき、人類は「自分を外から見る」能力を得た。それは自己を二重化し、物語(自己幻想)を紡ぐための前提であった。同様に、AIという「感情なき知能」を鏡にすることで、私たちは初めて、自らの言葉に宿る「3割の野生」という、かけがえのない光を再発見できるのである。AIには「語りうるもの」のすべてがある。だからこそ、私たちはAIとの対話を通じて、自分たちの中に眠る「語りえないもの」を、再び言葉に変えようと足掻くことができるのだ。
結びに代えて
子供の叫びも、人麻呂の歌も、その本質において「身体の律動」であることに変わりはない。言語という壮大なシステムの中に隠された、その失われゆく野生を救い出すこと。それは、人類が積み上げてきた英知と再び対等に向き合うための、孤独で豊かな作業である。
この連載では、言語という迷宮を、身体の深層から共同体の物語へと向かって歩いていきたい。
次回は、二足歩行がどのようして私たちの「言葉の器」を空けたのか。その物理的な起源と「喉」の変遷について、深く潜っていくことにする。
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