2012年の10月、私のもとにやってきたアジリーズ。

2024年の10月、初めて習った先生に譲渡を無事終えました。

てづくりのカバーや防水カバー、こつこつあつめたハービソンの譜面とか、一部公約的にわたしのなかにとどめるべき資料以外は、すべて譲渡です。

 

 

 

 

 

 

いつもいろいろなことがとても控えめな、とても心の美しい先生で。わたしのことを出会ったときから今まで、ブレることなく、丁寧で、距離感もそっと工夫しながら、いつもとても大切にしてくれました。

 

絶え間ない静かな抑制。

 

それは、思いやりにしかできないことだから。

 

だからきっとこの方なら、わたしを見守ってきてくれた、母にも存在が近いようなこの楽器を、とても大切にしてくれるだろうって、思ったんですよね。

 

 

 

 

 

精神的にも、過去への想いから抜けないとならない時期が来たんだという思いもありました。

 

中東で香田さんが亡くなった2004年10月29日の前日、わたしはアルジャジーラに延命のメールをおくり、特急に飛び乗りました。

 

翌日の朝、香田さんは信じられないような残酷な形で亡くなり・・・  その日は・・早朝からその知らせを胸にかかえ混乱したまま、周りを思い切り泣かせて笑わせる練りに練ったスピーチを贈ったたいせつな親友が、最高に幸せな結婚をした日ともなりました。

 

 

過去に友人を亡くしたショックから立ち直れていなかった私の心は、あの時に真っ二つに割れてしまい、世界は灰色になってしまいました。

 

灰色の世界の中で、わたしを若干の回復に導いてくれたのが、ハープでした。

 

いや、正確に言えば、それを弾いていた、セリア・ブライアーの呼吸から伝わる、人間としての在りようだったのだと、いまは思います。

 

 

わたしがこの楽器の世界に飛び込み、そしてまた、世界の均衡や真実、この世界が何故狂っているのか、その仕組みを並行して探し始めたのは、そのためです。

 

そうやって悲しみに耐えてきたともいえる。

 

それがわたしが、この理解できない世界のなかで生き続けるための、希望の1つだったのだと、いまは思います。

 

 

今日、この記録を書きながら、あの日からもう20年が経つのかと茫然としました。

 

 

それだけ研鑽してきたのだから当然なんだ・・・

いまはいろいろなことがとてもよく見える。

世界の悲しみに振り回されることもなくなりました。

 

 

帰り道、夢の様な速度で人生とは過ぎるのだなと、いままでとこれからをしみじみ思いながら、後部座席から消えたアジリーズと、ともに過ごした12年が形として去ったことを実感しました。

 

同時に、心細さに近い感情も味わいました。

 

 

 

 

ここからは、背中に引っ掛けるこの1本がいまのわたしの唯一の相棒。

 

 

 

私の中の狂暴性も、まっすぐさも、熱量も。

美しさも醜さも平凡さも非凡さも、すべて受け止めてくれる、とても身軽でパワフルなこの楽器と、新しい人生がはじまります。

 

悲しみと探求に捧げた長い時間。

 

 

 

あらゆる光と、その影。

 

いのちに太陽が必要である以上、それらをなかったことにして生きてゆくことは、だれにも、できない。

 

私にできるのは「しる」ことにより「じゆう」になること。

 

 

私に悲しみをもたらす闇こそが、わたしに真実を知らせてくれるたいせつなはたらきの一部であること。

 

 

喜びと、悲しみ、奇跡と不条理の間で、それでも人は生きるということ・・・

 

 

ここからは、等身大の私と、毎日を丁寧に過ごすことが、わたしの人生の最大の使命だと思っています。

 

気負わないことが、私を最大に活かすということに、ようやく気が付けたように思います。