この半年で4度目の事故で、その治療のため、少し前から上京中です。

 

 

最近、チ。という漫画を読んで、得も言われぬ感動をしたばかり。火の鳥を超えた感動があった。

 

 

昨晩、フェラーリの映画を観た。

 

きづけばずいぶん昔のことになったが、わたしに生き方をてほどきしてくれた人がいて、その人がF1をとても愛していたことを思い出しながら、映画館に向かった。たまたま泊まったいつもとちがうホテルから、その人が毛嫌いしていた隅田川の花火大会が見えた。

 

 

正直、F1世界から圧倒的に感じていた「生の輝きの面」を思うとき、面白いとはまったくおもえなかったこの映画の終わりごろ、わたしはすさまじい衝撃を受けていた。立っていられないような気持ちで、彼だったらこの映画になんて感想をいうのだろうなどと、落ち着かない、じつに暗い心で電車に揺られていた。

 

 

あっけなく、そして人はまるで物質のみのように、ああ、死ぬんだなとおもいながら、自分がどれだけみえないものたちに守られてきたのかを痛感した。この4度の事故の間、わたしは、あんなふうに死んでいてもおかしくなかったのだ。

 

ここまで、ほんとうに命懸けでやってきたなぁと思った。人を助けるための行為にひといきつくたびに、大きな事故に巻き込まれてきた。此処から先はそういう生き方でないあり様を選びたいなと、なにかスイッチが切り替わったように感じている。

 

 

昔から、たぶんわたしは何かこの生を外的な力で、それもできれば愛した人に、終わらせてほしいと願ってきたように思う。

 

わたしは、自分を見捨ててきたのだ。

 

そしてその傷をいやすために、命懸けで人を助けてきた。

 

 

しかしよく考えたら、変な話だ。

 

わたしは、人を助ける前に、まずは自分の生き方をすこしでも変えて、自分を救ってあげるべきなのだ。

 

 

心も体も、どうしてこんなに傷だらけでバランスが崩れているのか。

 

なぜこんなに、わたしは幸せに生きることを諦めてきたのだろう。

 

 

 

もう数日は、ひさしぶりに仕事を休んで治療をしながらゆっくり過ごせる。

 

 

この世界をサーフライドする技術は得たのだなと思う。命の赴くまま、ありあまるエネルギーを使いこなしながら進んできた。

 

 

しかし肝心のわたしのほんとうののぞみを、わたしはまだ、訊くことができないでいるのだなと思った、


 

自分にゆっくり時間をとる。

まずはそれしかないのかなとも思う、焦ることでもないのだ。


 わたしは今、怖い。

こんなに死を身近に感じたことはなかった。

隣にだれかがいてくれて、私を抱きしめてほしいと思った。


私もこうやって、なんの前触れもなく、残酷なほどあっけなく連れて行かれてしまうのではないかと思わせるくらい、私もあのドライバーも、生きていたからだ。