イムリを読み終わって、私のなかでとても深い部分の方向が決まった気がします。
社会や経済がどこを向こうとも
心の奥底でゆるがなく守らなければならないものがあるのだと。
何を変えることができなくとも。
いや、変えることに意味があるのではなく
わたしのなかにあるこの確信を
わたしじしんが、ただそう在ることが、ただ、大切なのだと。
子供のころから惹かれ続けたのに体感理解が長らくできなかった自然とのかかわり。
水瓶座の「情報と知の領域」へのアドバンテージにより、社会・経済・ネットなど、いわゆる「ヒト&テクノロジーの領域」を、先にどっぷり見て回ることになったなと思いますし、それゆえに時代の影響を強く受けて行き詰ったことも多かったなと思います。
そしてそういうものに誰よりも汚染されてきたからこそ、いまはたいせつなものの本質的な部分がよくみえてくるし、わかるのだなとも思える。
自分は小さなころから誰よりも「自由」を追い求めてきたように思う。
人間という種のもつ「遊び」や「快楽」の部分というのは種としての特徴ではあるが、やはりどこかで調整をかけないとならないのだと思う。
自分をたいせつにしてくれる社会は、人を大切にしてゆく社会でもあるはずだ。
共生するこころと、自由というのは、本質的に共存は難しいように思う。
共生。自然の中における種として、求められるあるべき姿。
経済からできる「余暇」により、それらから解放されていく部分としての、自由。
私たちを解放したはずの経済が、いまは私たちを縛り付けるものとなっている。
アメリカの掲げてきた自由という価値観。
それらの礎となった、人々を解放してきた経済というものが、いまは人を奴隷化する、それこそカーマの技となってしまった。
今日は、石岡瑛子の講演会を聞いた。
高校生の時「ドラキュラ」を映画館で見たことがあり、パンフレットのビジュアルががいまも鮮烈に心に残っていた。更に資生堂のハワイロケのポスターをみかけて、心が「この講演会には絶対にいかねばならない」とシグナルを鳴らしてきたので、仕事が徹夜続きで寝坊しつつも、衝動にしたがって高速に飛び乗った。
石岡さんのことをたいへん深く愛されているのだと感じる解説の中で、作品のひとつひとつに血が通っていくのを感じた。
久しぶりにすばらしい場にこれたのをかんじた。
石岡瑛子という人の熱い在りように惹かれながら、時代というものがこうやってつくられていき、若いころのわたしは、そういったもののなかに受け身で存在してきたのだな・・・ともつよくかんじた。
彼女のエネルギーが私たちを凌駕して、私たちを変化させてきたということだ。
経済や政治や社会が意図をもって示唆するものが、私たちになにかを及ぼし、それにより、わたしたちが無意識に生き方を誘導されてゆくことに、似ているような気がした。
そういうものに振り回された45年だったのではないか。
イムリ読了時、そんな風なことにはっきりと目が覚めたことをおもいだした。
怒り、悲しみ、焦り、絶望。
経済という舞台の上で、恐怖で目がみえないようになって、生きてきたのだとおもったのだ。
いまとてもよくわかる。
過度に便利になってゆくことは、人の心を殺してゆくことにつながるのだと。
それでも、広告、という正に経済の最前線にある場所で、こんな風に戦い続けた女性がいたのだということには、深く心を動かされた。
人間が人間であるということ。
よいこともわるいことすべてひっくるめ、自分という存在が、世界という存在に対して、良い意味で距離をとることができるようになったのを感じている。
経済というエリアの中で、自分なりに合格ラインまで到達してみて、はじめて世界を遠くから眺めることができるようになった。そうなるためには、社会のレールから一度激しく外れる必要があった。わたしのいる世界の哀しみをしってゆくまでを深く体験する時間は、わたしにとって、決して無駄な時間ではなかった。子供の頃自然に求めたものが、なぜそれだったのか、それを自分の存在で検証した45年だった。
そのなかで育った確信が、今後の私の生き方を静かに煌々と照らしている。
そうそう、今日は久しぶりに笛の練習ができた。
20代くらいの方の動画をみていて、丹田に意識を集中させすぎてロングトーンができなくなっていたことに気づいた。意識は丹田に置きつつも、身体としては 体全体 で息をすってみたら、とても楽に吹けるようになった。
ここのところ仕事漬けだったので、今日と明日はお休みをちゃんととることにしようとおもっている。この長期休暇では、前半で仕事を終わらせて、後半は釣りの準備と、畑の耕作計画をたてれたらとおもってる。
そして、笛もたのしめたらいいなと思っている。