使いすぎて壊れたw 楽天のドクターエアを、母が新しく購入してくれた。

 

 

 

「なんだか以前のより小さくなったわね」と、ブツブツ文句を言っていたが、いやいや、今回のすごく軽くて使いやすいし、アタッチメントも悪くないし、なによりアタッチメントを付けない金属部分が服に引っかかずにスルスルつかえて感動。しまうのも省スペースで済むのも助かる!!!

 

モニターテストやってかなり改良したんだなぁ。このプロジェクト主導したかたなど、すごい尊敬。小型にしていいことづくめなのは、顧客だけじゃないだろう。倉庫に置くのだって場所をとらなくなっただろうから。

 

でもって、一昨日施術に、昨日リハビリに行ったのもあるけど、このエアガンのおかげで、太もも前部と臀部の筋肉のこわばりが取れて、夜あたりからかなり普通に歩けるようになってきた。

 

前は事故の影響でお腹から太もも前部、そして臀部まで筋肉がガッチガチになり、そのせいで腰がすごく曲がって、さらに背中が痛くなってたんだよね・・・

 

 

 

夕飯はめずらしく父がカレー作るとかで、任せて練習へ。

 

つーか 一番奥の防音室なのに受付まで音色が響いてたらしくorz

それはなんの笛ですか?と会計時に聞かれ、しどろもどろ。

 

身バレしないように、えっとぉ、アジア系の~ 民族楽器~ みたいな~?

 

・・・。

 

膜を貼る練習はまだできてないけど、指番号的なモノは覚えてきた。曲のようなものもとりあえず吹けるようになった。フルートと違って穴をふさぐキー的なモノがないのだが、くせで小指がどうしてもたってしまうなぁ。

 

だけど、顎を引いて背筋を伸ばすので、姿勢はだんだん良くなってきた気がする。

 

 

 

この2本用笛ケースが安い割に背負えてなかなか良くて。

 

 

 

 

 

 

 

 

練習が終わってから、ずっと我慢してきた1枚目をききました。

 

 

 

いろいろな味わいを感じる陸さんの演奏が、わたしはとても好きなんですね。

 

 

 

昔は、聴くときも練習するときやコピーするとき、意識がどんどん外に向いていった。

 

もっとすごくなりたい、そうやってもっと愛されたい。

最後はそんなことばかり考えてたと思う。

 

人を愛することと、力を得ることを、混同していたのだなと思う。

 

 

いまは全然違う。どれだけ自分のエネルギーをどこまで違わず外にリアルタイムでだせるようになるか。ほんとうそれだけ。単純な練習が心地いいし、できない状態も含めいまの自分が愛おしい。より、よくなりたいと願う。そのベクトルがいまは内側を向いている。円を大きくしたり完璧にしたり派手にしてゆくのではなく、より正確に自己の輪郭をえがけているか。ぼこぼこだからこそ美しい円を、本来の美しさをそのまま出したい。汚い音も、その理由が必ずある。そこへじっと心をむける。ただそれだけだ。自動的に心や体が動くのを待つ。

 

もう張りぼてのような自分は必要ない。わたしは愛されるだけのものをもともともっているのだもの。例外なくだれもがそうだ。

 

 



 

帰り道はにこを聴きながら帰った。

久しぶりに自宅にあるのを弾こうかなぁと、ちょっと思ってしまった。

 

震災の時に、楽器のネット友様からいただいた楽器・・・

夜中に久しぶりにケースから出したが、弓がいたんでしまっている。

 

へび皮は無事だったので、弦や弓、こまかな部品の再購入ふくめて、明日から手入れを開始することにする。老紅木は、いまは以前より手に入りにくそうなかんじだ。

 

 

 

帰ってから、テリー・コール・ウィッタカーのことを本当にひさしぶりに思い出して、本棚をさがした。わたしはこの人の本を2冊持っていて、飽きずに長いこと延々と読み返していた。

 

ある時から読まなくなってしまってたのだけど、英語版しかないがずっと読みたかった  Live Your Bliss  をついさっき kindleで購入して、PCOTを入れて読んでる

 

すると謝辞で Haridas Sastriji Maharaja Babaji という人が、テリーの師であることが分かって、このひとはインドのヴェーダ派とかいうやつなのか?? 

 

改めて自分に入れる思想というものへの無防備さを考えた。

 

小さなころから過敏で自閉気味なために、生きることに強い苦しみがあったから、心体技音魂と、いろんなものに触れてきた。

 

ギリギリのところでエッセンスだけ抜き取って、そしてやはり一定の距離を置き続けた。

だからある種のスピリチュアル系の人たちとはまったくウマがあわなかった。

 

わたしは、何かに深く帰依することは、まったくなかったのではないかと思う。

 

もしあるとすれば、唯一この経済という思想体系や物欲にまみれたこの世界についてだけは、その根底をほんとうに疑ったことが、ずいぶん長いことなかったといえる。あらゆるところに欲を刺激する罠があり、抜けても抜けても、皆が生きるためにあちこりに罠をはりめぐらせるのだから、きりがない・・・・

 

 

 

結局わたしがたどりついたのは、自分自身のかんじたほうへすすむ、というシンプルなことだけだった。

 

 

それはわたしにとってのオラクルカードの様なものだ。

 

 

 

自分の心の輪郭を知るために、あらゆる世界の事象が存在する。

 

世界にわたしの心の輪郭を拡大させることはさせても、支配させるつもりはない。

 

いつでも探しているのは、自由だ。

 

 

それはたぶん西洋的な意味での自由ではなく、東洋的な何かなのだと思う。

 

その自由には、自分を信じること、そして世界と触れ合うことが必要なのかなとおもう。

 

 

身体がすごく楽になってきたので、明日からはここまでの休息をやめて、スケジュールを立てる日にしようと思う。仕事を少しずつ再始動していこうと思っている。やらなきゃならなそうなことはたくさんあるが、それらをいかに捨てるかが、ここからの腕の見せ所だろうな。