また、こたーんと寝てしまった💦


最近、無理が効かない。

うん。良き良き。



目が覚めてお風呂に入ってまた眠る。w

目が覚めて試供品で貰ったシャンプーをなにげなく使ったら、まるでハチミツみたいで、香りもゼラニウムで悪くない(ベルガモットが一番好き‼️)すごく良かった。


同じメーカーでも種類違うとこんなに違うんだー‼️

なくなったら変えてもらおうっと‼️



パジャマに着替えて、歯磨きをして、鼻うがいをして、スキンケアもした。

ちなみに、明日からネイルケアもしようと思っている。


でもなんとなく寝れなくて梅醤番茶作って飲んでる。秋の夜長に飲むものを決めておくっていうのは、割とたのしいことだなと思う。一式用意しておく。YouTubeでコーヒー関係のvlogとかの静かな音楽や映像を流しながら、1人お茶会を始めると心が落ち着いてゆく。



最近安く手に入れた中華な生姜ポットをわりと気に入っている🥰 

で、醤油差しをどうするか結構悩んでる。

まあ焦らないで、幸せな気持ちになるものを探そうと思う。



今日は来客があるから、あまりゆっくりもしていられないけど、久しぶりに四時くらいまでなら、、読書しようかな💕







 

 

ー昨日からほぼ1日ダウン。

 

事故る系の相当カオスな夢とかも見て、現実か夢かわからないまま数時間うとうとうなされながら。


気づいたらよくあさ。

かなりくたびれてたんだなぁと。

 

 

でもって今朝、顔色がとても良くなってることに、動画電話してるとき気づいた。

なんだこの顔色、ありえん!ていうくらい綺麗。。 


なんだ。。綺麗っていうか・・・普通の顔色・・・

 

えーこの4年どんだけ真っ黒だったんじゃっていうかんじじゃん・・・。


親がわしの顔色みるたびワーワーいうわけだわ・・・

 

いやー・・・死ななくてほんと良かった・・・・。

 

 



思い返すと、ときどき腹が立ってくる。


でもそのたび、何故か目の前の車のナンバーが77.77とか、そういう感じのが都度都度あって、そのたび、腹立てるより、ヒスイのバングル、、、って軸を自分に戻せた。


幸せになるには、幸せでいることなんだよな。

振り回されるか、振り回すか。


わたしは無力ではない、ということに都度気付かされる。

太陽フレアの影響で、メンタル体調ともに最低なわけだが、このトリガーはかなりありがたい。



 

 今日は結構早くからずっと仕事してて、15時ころに思い立ってフライングガーデンへ行った。

 

30歳のころ付き合った人と、1度だけ行ったことあったある意味おもいでぶかいチェーンw

 

なんで行ったかというと、けっこう長いこと、クリームブリュレのキャラメリゼをバリバリしたかったんですよ・・・・

クリームも舐めたかったしw


しらべたら近くのフライングガーデンにあったという。


更に、検索中に、ゆずオレンジパフエなるものまでみかけてしまい、これはもう絶対いきたい・・・と・・・

 

今日は仕事一色で昼休が全くなかったんで、思い切っておちゃのじかんをつくってみた。

ゆっくりお茶しながらはむはむ。

 

幸せ気分。

 




 

 

おみせからでるとき。


自分がこうしたいなっておもうことが素直に心にきこえること。


それを自分に許可すること。 


あー。。。これがとてもすなおにできるようになったんだなって、しみじみした。

 

 


つい先日、おいらの手指腕、ネイルの手入れ等、翡翠のバングルに相応しい左腕にしようとおもいたった。

 

わたしはずっと、骨ばった長身で、指が細く、手が大きくて、骨ばった関節で、爪の形の美しい男の人が好きだった。

 


なんでかっていうと、わたしがそんな風に生まれたかったから。笑。

 

 

でも今日、思ったんだ。 


与えられたこの手指、腕・・・ 


わたしのフィールドのなかの自然な方向で、最高に美しくしてみよう。

 

可愛くなくてもいい、綺麗じゃなくてもいい。

 

あたえられたものを、愛せるように、大切に愛してあげよう。

 

 

そんなことを思った。

 

 

仕事をしてたときのわたしは、急いで現場をまとめなくちゃならないから、ハリボテみたいに勘所を探しながら急いで成長しないとならなかった。



しかしそのすべてを取っ払ったわたしは、とても弱く情けない。


でも、気づけたそこからだなと思うし、本当にしなやかにつよくしたいのは、そちらのわたしなんだ。

 

わたしをすきになりたいし、わたしをすきでいたい。


完璧でなくていい。

間違えるときも、失敗するときも、ヘンだったり、おかしい時もあるけど。

 

今まで、自分のために美しくなりたいって思ったことって殆どなかったんじゃないかな。余裕なくてお金もかけないできたしなあ、、


へんてこなのも全部こみで、美しい自分にならたらいいなというか、そのプロセスをじわじわ味わえたら、なんかきもちよさそうだ。


とは言え今日はあまり頑張れないので、笛吹いたらすぐ寝ようと思う。このよねんのダメージは、たぶん想像以上に酷いものがあると感じている。



 

 

 

この6年間の疲れが出ているようで、若干陰性的なメンタル。

 

珍しく仕事に集中できずな日々をすごしているが、家族には顔色がやっとよくなってきたと喜ばれているw

まともに休むことがなかったからなぁ、ほんと・・・

 

 

昨日大きな仕事が終わったんだけど、今日も今日までの提出の仕事があって、まぁ日付変更線超えるけど、明日の朝までには提出できてないとねってことで、笛は吹いたので、これから資料つくりに職場2へ。(すでに職場1にいる・・・)

 

 

それにしても、木星逆行ってことだけども、やろうとしてることのほとんどに、過去の未課題ストレッチがかなり効いてるなと。弓道は高校の時の思い残しだし、経営の勉強も新社会人後の思い残しだし、素読の出会いにはあたらしー出会いを若干ですが期待しているw 健康な状態で恋人と幸せになりたいという思い残し。わたくしだいたい10年間隔で恋人出来てる人なので、最後の恋らしきものは、たぶんあと2-3年後かなとは思ってるんだけどね。今年来年恋人出来ても長続きしない星回りではある。

 

 

でもって職場2にいくまえに、学生時代の先輩からべろべろに酔って電話きたw

あれだけ酔ったから勇気を出してこの時間ワイに電話できたんだと思う。

人間関係についていろいろ励ましたりしながら、男の人って不器用だなぁとしみじみおもった。

 

 

人にはさ、素直になれるときにならないと、一生後悔することってのがあるんだよ...

 

 

そして電話終わってみると、やることヤマモリングである。

早めに笛切り上げといて正解だった。。

 

もうちょっと休んだら、向かうか2へ・・・

 

 


 

 

今月末、3つの世界に足を踏み入れてみることにした。


どれもお金のかからない、無料体験。


 

1つは公民館での弓道経験。

もう1つは経営大学の体験教室。

そして、地元の大学が開講している素読のクラスです。

 


祖父が弓道の先生で、一時期は鍛えすぎて背筋が130あったことのあるわたし。

高校は弓道部に行きたかったのに、卒業式目前で靭帯の断裂。

あれからずいぶんたつけど、ずっと弓道に憧れがあった。

 


経営大学のほうも、実は30前後くらいの頃かな?説明会に行ったことがある。

当時は学費が高すぎて諦めたんだけど、なんと1時間程度電車で出たところに系列の単科大学ができていた。

 

中小企業診断士をとってみたいという夢が若いころからずっとあったんだけど、実務に追われて経営の体系的な勉強をしたことがなかったので。他業種の仲間ができるのもとてもたのしみ!


 

素読のクラスはこんな時代にこんなニッチな活動に参加する人とお話をしてみたいなぁっていうきもちも若干。

 

 



昨日はとても大切な友人の朗読のコンサートだった。


彼女の課題も解決策もわたしにはとてもよく見えた。彼女が無意識に選んでいる朗読の詩の意味も。


が、誰かに何かする時は、今後はわたしから溢れたものが無意識内で自動的に支援していることのみ、ときめてから、人の人生に手出しをしないということが、とても楽にできるようになっていたのを自覚した。


そして、そんなことよりも、世界を愛しており、愛されていると確信している彼女をみながら、懐疑的なわたしもこんなふうに世界を愛せたらと彼女をやさしく微笑ましく感じる。つい私の価値観を変えてしまいそうになるくらいの何かが、彼女にはある。

 

ちいさく震えている彼女に心から安心してもらいたいと願いながらも、彼女がそうであり続ける彼女の自由を担保することも、この世界の愛なのかなと、彼女の世界を見ていて、あるがままを許してくれるこの世界、、という彼女の言葉の深い意味を知るのです。


 



わたしの今の目標は、大切な人に、ラベンダーグリーングラデーションの翡翠のバングルを贈ってもらうこと。





というか、結果的にそれがスムースに行われてしまうような人間になっていること。

 

 

私が私であり

自分に正直に生きること

それを心から愛してくれる人に出会えること。

 

 

手首にある視えないバングルを想像したとき。

私の軸はセンターに戻る。


人のことではなく、自分のことに集中する。


私のやるべきことは人助けではなく

私が私であること。

 

それがいつか世界に溢れてゆき、何かのささやかな力になれていたら、それは素晴らしいことだと思う。

 

 




たくさんの手放しと引き換えに、自分の心と魂がしっかり開通したのを感じている。


同時に、受け付けないものもたくさんできた。




それでもいまはわかってる。


大切な人たちは、私から去らない。



去ってきたのはいつも、私だった。


置いていかれるのが怖くて、離れられるのが怖くて、逃げ出してきたのは私だった。



ここんとこなんで大學をガラスペンで書くなんていう不思議なことをやってるのかも、なんとなくわかってきた。


ビジネス書やネットの過多な情報をみると、ともかく気持ちが悪くなる。


身体的なもの、れきしてきなもの、情緒のあるものでないと、からだがうけつけない。


長年注ぎ込まれてきた毒のようなものにアレルギーが起きてるんだなときづいた。巧妙に仕込まれた遊園地の毒も、末期になれば馬鹿でもきづく。


やりすぎないことが大切なのに、彼らはやりすぎたのだ。やりすぎること自体が、衰退の証なのに。



易経の世界では、淵で眠るべきときと、立ち上がるべきときと、何事にも時があると説いている。時を間違えると、潰されるだけだと。


わたしたち40代が一番気づいている世代だと考えるが、それゆえに私たちは立ち上がらないだろう。



ひどいことが起きれば起きるほど、目が覚める人は増えてゆくのだろう。


その数が閾値をこえるとき、世界は変わってゆくのだろうな。


そして良い世界がつづくと、それもそれでまた問題が起きて、悪と呼ばれるものが跋扈してゆくのだろうね、、、



同じ世界線でぶつかり合っていたら、永遠に同じことが続くように思う。


だからフォーカスは自分にあてる。

仕組みの中でバランスすることに難癖をつけるのは、どんな巨大な光も闇も、難しいからね。


アメリカは何故ベトナムに勝てなかったのかという、ことなんだよな。



連帯もせず勝手にやってゆく、勝利など目指さない私たちは、雨後の筍のように、或いはゴキブリのごとく増殖しながら世界を汚染して行くだろう。


それぞれが勝手に、屈辱の中でのみみつけることができた幸せを、目指しながら。


頭も尻尾もないそれを、誰も押し留めることは、できないだろう。








中庸に進んで、再び考えてしまった。


天は私たちを支配するもの?

それとも愛してくれる、愛すべき存在?


素読はすきだけど、最終的に儒家的なものに賛同しきれない自分がやっぱりいる。



天から自由になる、という言葉があたまにうかび、それをきっかけに、荘子が、わたしがぼんやり考えてきたことを考え抜いていたということが、さっきわかった。


そして、とても気になる書籍や人物もみつけた。



しかし、大切なのは、インスピレーションにとどめること。


私の感覚によりちかづくために、細部をりかいするために名前をつけるため、知識はあるのだということだ。








大學を書きながら、素読しているのが、何かとても幸せ感高くて。 



なんか世間一般の女子の幸せからすごい遠ざかってるけど。w




そして、書いて、声に出して読むと、すごく体に入るなー。


コレ、1日書いていたいなー。




今日気づいたけど、私の心をリアルタイムで追えるようになってた。


自分が欲していることが、すぐにわかるようになった。


20年近く探してきたものが。


やっとできるようになったね。。。



子供みたいに怯えながら生きてきて、いろんなものを省きながら必死で成長しようとしてきた。


だけど、本当に大切なものは、情けないくらい弱い自分のなかにあったんだ。


どんな高い仕事の目標もクリアしてきた。


でも、自分の弱い心は、全然成長してなかった。



人に優しくあることと、自分を大切にすることは、両立できる。

バランス的にも、ある種の強さは、とても大切なものだ。

本当の強さは人を傷つけない。



省いてきたものの中にこそ、大切な課題があったんだ。。










今日は仕事を早く切り上げて、太極拳の型の復習をした後に、公園ですこし笛を吹き、秋の旬のもので安く出来上がった夕飯を落ち着いて食した後、家族とお茶をしてひと休みをした。


仕事に行って帰ってくると、いつもならクタクタすぎて何もできず、気づいたら毎朝椅子で寝てることに気づくような生活が5年近くもだったのが、ここにきて、すっかり静かになった。


明日からは1時間早く出て、1時間早く帰ることにしよう。




漫画版を職場に忘れたので、Kindleunlimitedで読めるソフィア文庫の大學を先に読み始めた。これはどうやら要点型の書籍のようだ。



今日からは、帰って体力が残っているので、エアロバイクを漕ぎながら読むことにした。


この歳になって、色んなことを色んな立場で体験し、大したことはないが苦難もあったおかげか、古典が面白いと言われる理由が初めてわかった。


いやー、、


これは面白いな。。



星読みと社会生活を通して学び、体感し、目指してきたことが、論理立てて書かれているような気がする、これ、、、


特に八条目。










冒頭の三綱領などは、まさに自分が先日まで目指していたものと違わない。





究極の善、というと、なにかアタマがおめでたそう(?)だが、イキイキした本来の魂、と意訳できるのではないかと。

 


素読しながらガラスペンで大學を毎日写経したいなあと思って、早速書いてみたけど、この安価な国産ガラスペン、漢文とものすごく相性が良くて、気持ちがいい。おしむらくは、右から左に書くと、インクが乾きにくい点か。



小さな頃から対人系では、ストレスかかるとすぐ折れそうになって、おかしいと思っても黙っていろいろ飲み込んでしんどくなってきた自分の心の脆弱を乗り越えてゆけるよう、行動を変化させていきたいなって、ここんとこしみじみ思ってる。。


それには、無力感に負けず、本当に心の底からどう生きたいかということを選び取ろうという覚悟と、もう一つは、単なる慣れなのだと思うようになりつつある。



勇気がいるけど、ほんとうに小さな一歩でも、踏み出せたらエライって自分を褒めてあげようと思ってる。










 

 

2012年の10月、私のもとにやってきたアジリーズ。

2024年の10月、初めて習った先生に譲渡を無事終えました。

てづくりのカバーや防水カバー、こつこつあつめたハービソンの譜面とか、一部公約的にわたしのなかにとどめるべき資料以外は、すべて譲渡です。

 

 

 

 

 

 

いつもいろいろなことがとても控えめな、とても心の美しい先生で。わたしのことを出会ったときから今まで、ブレることなく、丁寧で、距離感もそっと工夫しながら、いつもとても大切にしてくれました。

 

絶え間ない静かな抑制。

 

それは、思いやりにしかできないことだから。

 

だからきっとこの方なら、わたしを見守ってきてくれた、母にも存在が近いようなこの楽器を、とても大切にしてくれるだろうって、思ったんですよね。

 

 

 

 

 

精神的にも、過去への想いから抜けないとならない時期が来たんだという思いもありました。

 

中東で香田さんが亡くなった2004年10月29日の前日、わたしはアルジャジーラに延命のメールをおくり、特急に飛び乗りました。

 

翌日の朝、香田さんは信じられないような残酷な形で亡くなり・・・  その日は・・早朝からその知らせを胸にかかえ混乱したまま、周りを思い切り泣かせて笑わせる練りに練ったスピーチを贈ったたいせつな親友が、最高に幸せな結婚をした日ともなりました。

 

 

過去に友人を亡くしたショックから立ち直れていなかった私の心は、あの時に真っ二つに割れてしまい、世界は灰色になってしまいました。

 

灰色の世界の中で、わたしを若干の回復に導いてくれたのが、ハープでした。

 

いや、正確に言えば、それを弾いていた、セリア・ブライアーの呼吸から伝わる、人間としての在りようだったのだと、いまは思います。

 

 

わたしがこの楽器の世界に飛び込み、そしてまた、世界の均衡や真実、この世界が何故狂っているのか、その仕組みを並行して探し始めたのは、そのためです。

 

そうやって悲しみに耐えてきたともいえる。

 

それがわたしが、この理解できない世界のなかで生き続けるための、希望の1つだったのだと、いまは思います。

 

 

今日、この記録を書きながら、あの日からもう20年が経つのかと茫然としました。

 

 

それだけ研鑽してきたのだから当然なんだ・・・

いまはいろいろなことがとてもよく見える。

世界の悲しみに振り回されることもなくなりました。

 

 

帰り道、夢の様な速度で人生とは過ぎるのだなと、いままでとこれからをしみじみ思いながら、後部座席から消えたアジリーズと、ともに過ごした12年が形として去ったことを実感しました。

 

同時に、心細さに近い感情も味わいました。

 

 

 

 

ここからは、背中に引っ掛けるこの1本がいまのわたしの唯一の相棒。

 

 

 

私の中の狂暴性も、まっすぐさも、熱量も。

美しさも醜さも平凡さも非凡さも、すべて受け止めてくれる、とても身軽でパワフルなこの楽器と、新しい人生がはじまります。

 

悲しみと探求に捧げた長い時間。

 

 

 

あらゆる光と、その影。

 

いのちに太陽が必要である以上、それらをなかったことにして生きてゆくことは、だれにも、できない。

 

私にできるのは「しる」ことにより「じゆう」になること。

 

 

私に悲しみをもたらす闇こそが、わたしに真実を知らせてくれるたいせつなはたらきの一部であること。

 

 

喜びと、悲しみ、奇跡と不条理の間で、それでも人は生きるということ・・・

 

 

ここからは、等身大の私と、毎日を丁寧に過ごすことが、わたしの人生の最大の使命だと思っています。

 

気負わないことが、私を最大に活かすということに、ようやく気が付けたように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事に追われ30分ではあったけど、ある程度安定した高音が出せるようになったなって感じた。

日頃マジメにやってると、さぼって時間を置くのも結構だいじなんだなっておもえた。バランスなのかな。

 

 

今日は、ほうじ茶を使って、梅醤番茶をつくって、スプーン型のショウガ摺からショウガをいれた。

部屋に醤油を1瓶買おうと思ってスーパーの醤油コーナーにひっさしぶりに行って驚いた。

 

おいおい。国産の大豆を使った安心して使える醤油が1つもないじゃないか・・・ なんだこれは・・・

 

仕方ないので、昔メルマガを読んでた食系職種のコンサルさんから教わった安全な醤油を発注。

 

 

 

 

あれかな、根絶やしなのかな日本人は・・・・ 結構衝撃だった。

 

 

 

それにしても、なんだか心が外部に向かって頑張ることを徹底的に拒否中。休ませろ―って感じみたい。机のまえできあがった美味しいホカホカのうますっぱいお茶を飲みながら、なにもせずぼーっとしている。

 

 

 

明日はぼさぼさになった頭を抱えて、久々の美容室。

そして夕方には、10数年傍にいてくれたハープの譲渡がある。

 

楽しみなのは、朝イチで広島の友人からいただいたコーヒーをのむこと!

直接会ったことがないのにもかかわらず、強く人柄を感じることができる、とても不思議コーヒーなのです。

 

 

そういえば今日、とても美しいメッセージをシェアされた。

簡略して言うと、一人一人が教会の柱で、大きな柱も小さな柱も、全てが教会を支えるのに必要だ、というようなものだった。

 

これ、いまのわたしが到達した心境にとても近い。

 

 

私が整うことで、私の柱から伝わった振動で、全体が整ってゆく。

 

自分のことで精いっぱいな人はとくに、全体を整えようとする必要とか特別ないということかなっておもう。

 

そう、わたしがそれ。

 

自分をしっかりやることなんだ。

陸さんの笛のように、フワフワしないで、自分を。