某所11月挨拶。

 

 

 

「人的資本」

 

 人の成長に必要な経費や労力。これを「コスト」と考えるか「投資」と考えるかという二元論が子供の教育から大人の会社経営まで、様々な場面ではびこっています。

 

 「高い学費払ってるんだから、元を取ってこい」「出世払いで頼むよ」などはまだいいとして「やる気がないなら月謝が無駄だからやめるよ」という言葉は呪いとなって次世代に継承されていきます。
 

 【コスト】=少しでも削減した方が良い=後ろ向き / 【投資】=成長を期待する=前向きと解釈されることが多いですが(日本の会社経営においては昨今もっぱら「人的資本経営」という言葉がもてはやされています)、結局どちらも共通しているのは損得勘定です。投資は一見明るい言説のようで「見返りを求めている」「損しないことを希求する」点でコストと共通の思想を持っています。「やる気がないならやめる」=「今お金を払っているのはやる気があって、きちんと費用対効果に見合う成果を出すことが期待されている」ということの裏返しです。
 

 確かに、コスト感覚は生きていくうえで必ず必要な感覚です。必要もないものに有限の資産を費やし、無計画に「お金が無くなってしまった、どうしよう」と嘆いても、お財布の中身は初期設定にリセットできません。
 

 ただ、人の成長に「価値」の有無を見出し、ましてやそれを金銭的尺度で図ろうとする思想は極めて危険です。その成れの果てが「○○人は能力が劣るから絶滅させることが人類の進歩のために正義」「働けない人間に価値はないから、無駄な税金をかけなくて済むよう、殺します」といった優生思想に繋がっていきます。
 

 かつての世界は、「女性の方が結婚・出産し退職する可能性が高いから、人材教育のコストを割いても無駄になる、男性に経験を積める機会を多く割り振ろう」と考えるのが当たり前だった時代があります。「黒人の方が白人よりIQが低いというデータが明らかになった。一方、白人より黒人の方がオリンピックの一部競技ではメダルを多くとっている。頭を使う事務仕事は白人、体を使う力仕事は黒人が適切だ」ということが差別主義者以外にも本気で信じられていた時代があります。
 

 現代を生きる皆さんは、これが誤っているということは当然わかると思いますが、ではなぜ誤りと言えるのか、明確に説明できますか?「差別をしてはいけないから、そう考えてはいけない」…これでは理由になりません。人種問題はあまり身近でないという人もいるでしょうから、一つヒントを提示すると、IQ調査のデータは一つの事実です。ただ、その能力は生まれつき(先天性)のものなのか?というところに疑問の目を向けてください。対等に教育機会が与えられていたら本当にそうなっていたか?ということですね。
 

 人件費を「コスト」と考える会社はいずれこの世からひとつ残らず潰れてなくなるでしょう。(植物を育てた経験がある人なら誰でもわかると思います)
 

 ただ、「人に投資する会社」=人的資本経営になかなか移行できないのは、投資のギャンブル性の存在、つまり損するかもしれないというリスクが経営陣の頭を悩ませるからです。折角会社が費用を出して育てても、成長した瞬間に転職されてしまったら、育て損だなぁ… 気持ちはわかります。ただそれって「他人の玄関前を掃除しても、そいつが得するだけで自分には何の得もない」みたいな考えじゃないですかね。
 

 企業は何のために存在しているかといったら、突き詰めた先には「社会を良くし、そこに生きる人の幸福度を上げること」に尽きるのではないでしょうか。人が成長することで自分が損をするというのは極めて短絡的な発想です。
 

 ちなみに「人的資本」には個人のスキルや能力の他に、「社会的資本」(いざというとき助け合える人間関係)、「心理的資本」(自己効力感、レジリエンスなど。以前書いた”HERO with in”です)も含めるという考え方もあります。「人の成長に費やすコスト」は水であり土であって、仮にその人が受け取れなかったとしても、消失するのではなく、流れて循環してこの社会を健康に持続させる原資として留まり続けます。敢えて言うならば「損する」という考え方こそが「損」ではないでしょうか。