某所10月挨拶。 トーンポリシングとかちょうど話題になってますね。

 

 

 

「激おこ」

 

 「若い人はLINEのやり取りで文末に句点(。)をつけると怒っているように感じる」という言説が話題を集めています。きっちり「。」をつけることで、断定=断言=断罪?みたいな印象を持つのでしょうか。無表情だ、詰められている感じがする、といったネガティブイメージから、文末の句点を省略したり、「。」の代わりに絵文字を使うのが主流といいます。

 「おじさん構文」もしかり、この手の話題は「揶揄したい若者(←というカテゴリーに属していたい、自称”若者”であることは要注意)」「ダサいと嫌われたくない中年」双方に旨味のあるコンテンツとしていつの時代も瞬発的に盛り上がっては消費されていきます。ただ興味深いのは、句点の扱われ方がところ変われば180度変わるということ。ビジネスシーンにおけるメールのやり取りではむしろ逆で、文末に句点がない方がぶっきらぼうで怒っているように感じるということです。なんだったら上司への連絡で句点なしの文など送ってしまった日には「失礼だろ」と叱られてしまいます。

 相手は「怒ってないよ!」というつもりで句点を省き、それを受け取った側は句点が省かれていることで「怒ってるのかな?」と思った…なんて誤解もありそう。これに似たことは異文化コミュニケーションにおいてよく起こります。相手や食物への感謝のため、出された食事を完食する民族の敬意は、食べきれないほどたくさん振る舞うことを美徳とする民族には「食事が足りないという意思表示」と映り、時に不快感すら与えてしまいます。

 「怒ってるのかな?」「怒ってると思われちゃうかな?」… 腫れ物に触るようなコミュニケーションが横行する背景には「怒ることは幼稚なことで、怒りを適切にコントロールし表出しないのが立派な人間だ」という信仰があります。確かに、レストランで泣いてる赤ん坊に「泣くな!うるせぇ!」と怒ってる人は精神的な成熟度が低い、人間的偏差値が低い、と言ったら多くの人が同意してくれる気がします。では、「コンビニおでんツンツン男」「回転寿司しょうゆペロペロ高校生」を目撃したときに「ふざけんな!」と怒るのは正しい行動?自然な反応?「前者は怒る、後者は叱るだから後者は正当性が認められる」とか言ってみます?「悪意の有無だ」という意見もありそうですが、そもそも「悪意」はなぜ生まれるのでしょう?生まれたときから「悪意」を持ってこの世に降り立つ人間などいないはず…と考えれば、その「悪意」は100%自発的ではないかも?

 それではもっと違う例を。自分の大切な人や傷つけられたり、大切なものが故意に破壊されたときに、「アンガーマネジメントだ!」っつって静かに怒りをコントロールしようとするのは「精神的な成熟度が高い」と言えるのでしょうか?

 こうして様々な事例を検証してみると、【1】「怒りを表明すること」と【2】「怒りの感情が発生すること」とは、連動している部分もありつつ、別軸で考えていった方が生きやすくなりそうな気がします。法治国家に生きる以上「法を遵守する」のは大前提として、「相手を大切にすること(=自分が怒ることで相手を傷つけないよう努めること)」と、「自分を大切にすること(=我慢し自分を苦しめないよう努めること)」の両立が図れると良いのかもしれません。

――怒りとは大切なものを守るための、負を打ち破る原動力であり、極めてポジティブな、眩しい希望の光。(鈴木亮介2021)

 傷つけないように、失敗しないように…とばかり考えると、相手と血の通ったコミュニケーションができなくなってしまう。もう少し怒ることに寛容であれば、「。」を付けるだの付けないだので気を病むことなく、それでいて一歩踏み込んだ表現もできると思うのですが…(ここでぐっと怒りをこらえる)