某所7月挨拶。

 

 

「うさぎ」

 飼っていたうさぎが死んだ。もう17年も前のことである。そのときのことは今でもよく憶えている。最期、ケージの金属の柵を力強く噛み締めて、懸命に生きようとした。文字通り、懸命に。その様子を目の当たりにし、何か途轍もない力を与えられたように思った。一方的な思い込みかもしれない。その日の夜だったか翌朝だったか、忘れてしまったが、近くの川岸に埋めた。それから、毎晩帰宅時には必ず遠回りして、その河川敷を通り、心の中で手を合わせて帰った。最初は白い靄が見えて、そこに存在しているように感じた(気持ち悪いと思われるがほんとうのことなのだから仕方ない)。やがて、雨の強い日や、どうしようもなく飲酒し電柱にぶつかりながら帰宅する日は墓参を遠慮させていただくことになった。何十回かの草刈りと道路工事を経て、いつの日か白霞は見えなくなった。それでも、一生懸命見ようとした。見えなくなったことを認めるまでには、だいぶ時間を要した。それでも、河川敷を通ることは続けた。

時を前後して、夢にうさぎが出てくるようになった。シチュエーションは様々だが、共通しているのは、自分が精神的に落ち込んだ日か、体力の限界まで働いた日のいずれかである。比喩でなく命の危険を感じるとき、大抵あちらの世界からこちらに来て、蹴り飛ばしてくれているように思えた。

「夢でまた会えた」だの超自然の解釈を加えるには、余りにリアリストに違いなかった。実際にそこにいるのか、いないのかは分からないし、内側に作り上げた偶像かもしれない。それでも自分の場合、偶像とあまり思えないのが、そこで大抵の場合、言語によるコミュニケーションを行っていないのである。「動物と会話できる」みたいなチープなオカルト論者とは一線を画したい、という格好付けもあるが、実際に、”思い”を行動から勝手に感じ取り、理解したつもりになり、励まされているので、それが自分の内側で勝手に作り上げた妄想だとしても、或いは霊魂の類であっても、この際どちらでも良い。うさぎは自分の一部であり、私はうさぎなのである。人は一人で生きられないとよく言うが、そもそも人は肉体的にも精神的にも一人ではないのだなとも思った。

 

そうして18年余居住した仮棲まいの木造ぼろアパートを、今月退去した。あの河川敷に行くには、態々電車に乗り、徒歩で20分ほど行かないと辿り着けなくなった。足を運ぶ機会も減るだろう。でも、それでいいような気もする。もう必要なくなった、なんてことはない。でも、それでいい気がしている。