2020年早春、

そして、

2022年2月24日、

世界は変わりました。


 新型コロナウイルス感染拡大と

 ロシアによるウクライナ侵攻。

 歴史の歯車が回ります。



そんな日々にも、

庶民の日常とは強いもので、

ときおり、

図太い自分にうんざりするほどです。




 奥歯を噛み締めて虐殺の証を見つめた数秒後には、

 洗濯機がピーーーッ(終わったよー)と鳴る、

 薬を飲む時間となる、

 スマホの着信音が鳴る等々、

 ニュースの伝える事態の深刻さに斟酌することなく、

 日常は在る。



この平常心をコントロールするのが、

ここのところの日課です。

試験勉強に似ています。



 これは当たり前か?と自問自答する。




これを繰り返す内に、

ぶれていく点があれば、、

それは歯車の回転。

そのぶれをこうして書き留めます。




 核攻撃が選択肢に入る。

 (戦争論では、

 決してできぬ選択扱いでした。

 できぬから冷戦だったと。)


日々〝使える核兵器〟の使用について仄めかされ、

あるかもしれぬことは刷り込まれましたが、

当たり前となってはならぬものと思います。

危なっかしい。

要注意の自分自身です。





 原子力発電により、

 ロシアへのエネルギー依存を断ち切る。


 止められないだろう……少なくとも、

 地震の少ない国であれば。


ぶれました。

廃棄物は?廃棄物は?廃棄物は?

エコーかかりますがエコーはエコー。

ぶれています。



そして、

虐殺の映像は、

それが日常であっても、

繰り返されても、

当たり前であってはならないこととして、

刻み付けられています。





何をできるというわけでもない。

そうであっても心に刻む。

ウクライナについては、

そういう日常として日常に嵌め込まれました。



新型コロナウイルス。

こちらについては、

日常そのものの変革として、

眺めています。


今はデジタル化に適応し、

PCでできる仕事と思っていなかった仕事が日常となりました。





日々の生活の形そのものが変わり、

しかもそれが日常として定着する。

旧に復するものと、

変容したものとが融合し、

後戻りすることのない着実な変革が、

さらに進んでいくでしょう。




とすれば、

ウクライナを襲った侵略行為も、

新たなパワーバランスの構築を促し、

ゆっくりと、

この国の当たり前を変えていくはずです。


選択を繰り返し、

最後に

大事なものを残すなら、

それが何になるのだろうかと考えます。


それが命となるのか、

人の尊厳となるのか、

かつて矛盾なく融合していた〝命〟を守ることと〝人の尊厳〟を尊重することが、

必ずしも合致しない。


ウクライナの方々の戦う姿に、

日々突きつけられています。


ただ生きていたい!

それだけなのに!

どうか世界が平和であって!

血を吐くようなウクライナの老婦人の叫びを聞いて、

ああ 本当に その通りなのだと感じ、

そして切なくなりました。


それだけなのに、

それができない。


なぜできないのかを考え、

できるようにするために何ができるかを考える。

考える世界中の人々の一人である自分を思っています。



○後書き

とりあえず、

今の日常を幸せにしなくては。


スマホにガタがきています。

日曜日には購入予定を入れました。

待ち時間がもったいないですから。

趣味への投資でもあり、

ライフラインの安定供給のためでもあり、

ともかくまずは生活です。


画像はお借りしました。

ありがとうございます。