娘がいます。
ふと子どもを生むだろうか、
と思いました。
それは世界情勢が、
こんな小さな島国に暮らす庶民の生活にまで波を打ち寄せてくる今だからかもしれません。
3・11を振り返り、
たった今にも大地は裂け得ることを思い、
ほんの数日で瓦礫となっていくウクライナの街を見ては、
同じことがいつでも起こり得ることを思う。
そのつもりでいたとして……、
躊躇うだろうなと思いました。
異性のパートナーをもつ女性は、
妊娠の可能性を常にもっています。
育児放棄、児童虐待のニュースが増えています。
それをコントロールすることを知らず、
授かった命を守ることを知らぬまま子どもを産んでしまうことは悲劇です。
一方、
命への責任と自身の人生設計の双方を考える力があれば、
いささか社会福祉に不安がある日本です。
考えるということは、
疑問をもつということです。
そして、
考えるまでもないこととして結婚と出産が準備されていた時代は終わりました。
エストニアのクリスマスを改めて見ました。
冬は氷に押し包まれるキヒヌ島では、
女は島で家を守り、
男は海に出る。
女たちの結束はおそろいのスカートに象徴されます。
うっわーーーーというくらいに人生の選択は定まっています。
穏やかで幸せなクリスマスの風景は、
結婚、出産、古来からの家族の在り方をもって成立します。
それを美しいなと思う自分も確かにいます。
が、
絶対無理。
家を守るって無理。
いや守ってましたが、それだけって無理。
知恵の実には様々あります。
人生を生き抜く知恵は、
職業の選択やパートナー選びとは別にどっしりと地に足をつけて存在します。
それは、
キヒヌ島や以前女優の榮倉奈々さんが訪れたギリシャの村のように、
女性は嫁ぐものという社会通念の地にも、
いや限られた選択だからこそ、
繰返し刻まれてより深く存在する。
選んでいいぞと差し出されると、
まだ知恵が追い付いていないのが現代のように思います。
娘は異性のパートナーを選びました。
そこに孫の誕生があるだろうかと考えるのは母だから。
そして、
孫に固執しないのは「家」に縛られぬ今の自由です。
同性、異性と単純に分けられないパートナー選びですし、
そもそもパートナーをもつかどうかも選択できます。
広大に広がる選択の地平に呆然とする一方で、
時計の針がぐるぐるっと戦前に戻ったようなウクライナの悲劇。
何が起こるかわからない今、
娘が直面するであろう怒涛を思うと、
時代の輪が軋みながら回転する音が聞こえてきそう。
エストニアのキヒヌ島の風景は穏やかです。
そうした時の流れが緩やかな世界に心ひかれるのも、
また自分自身の真実です。
その選択ができないからこそほの甘く郷愁を感じます。
画像はお借りしました。
ありがとうございます。