今日、

お訪ねした記事の中で、

もっとも共感したのは「非戦を貫く」という趣旨のお話です。



戦車が列をなしています。

そして、

子どもたちが砲撃にさらされている。




これが弓と剣が武器の時代を舞台とする波瀾万丈のファンタジーなら、

忽然と現れた大軍勢が侵略軍の前に立ち塞がり、

それを率いる将軍が、

宣言する。

「そこまでだ!」



夢中で読み進んできた読者、

あるいは映画館の客席で手に汗握ってみつめていた観客は、

心中で戦士たちと共に勝鬨をあげる。



そんな読者や観客になった経験は、

どなたにもあると思います。



が、



侍たちが村を救った後、

「勝ったのは百姓たちだ」と

淡々と村を去るというラストは現代にはありません。


地球上のすべての生き物を人質に、

核のスイッチというジョーカーが黒く空を覆っています。





第三次世界大戦が、

ひどくリアルになりました。

侵略者の脳内では、

これは勢力争いです。

こっちの領分に手出しするなら、

そちらの領分も無事では済まないという理屈で押してくる。

それが世界でもっとも核ミサイルを有する国であることを土台とした戦法です。


ブラフかもしれません。

ですが核兵器は実在しています。




今 目の前で 命が奪われている

それはSNSを通じて文字通り目の前に見ることができます。

武器をもって立たないことを臆病と感じさせてしまうほどに、

その事実は重い。


それでも

非戦をつらぬく。

そうすることが、

今後を開くためには必要と思います。




よしんば、

核のスイッチを押させることなく乗り切ったとしても、

戦争回避がハッピーエンドではありません。

おそらく始まりなのではないかと危惧しています。


どの国も頭は一つではない。

払った犠牲に対しての見返りなくば、

不満はふつふつと熱量を増します。


手を血に濡らすことが正義であると為すとき、

同時に大きな金も動きます。

それはいつしか当初の正義を超えていく。


そして、

これまで各国それぞれであったものが、

見る間に色分けされていくのを感じます。


中立でいることはできない。

周辺国をレポートした中で、

そう語る若い女性がいました。

敵か味方か

どちらの側にあるか、

それを明確にしなければ、

どちらからであれ支援はうけられない。

そんな状況が既にできているということと思います。



プーチンが切ったカードの中でも

もっとも罪深いものかもしれません。

お前はどっちだ?

俺の側か?

NATO側か?


ここで、

ひとたび、

戦力投入というラインを超えたなら、

見返りはその色分けをもとに配分されていくでしょう。

それをこそ次の殺戮の萌芽と思います。




でも、

今日もまたウクライナの嘆きは聞こえてきます。

何もしないことは辛すぎます。

だからします。

募金を終えた今、

しなければならない最大のつとめは、

ロシア制裁に伴う様々に耐えることです。



ガソリン、

食料、

生活必需品すべての高騰に耐える。

その不満をロシアの方々へのヘイトスピーチに向けない。


日本に暮らし、

故国の暴挙に胸を痛めるロシアの方々と共に、

物資による支援を続け、

戦争反対の声を上げ続ける。



逃げではなく、

それこそが名も無き庶民のできる唯一のことと思います。



「あのころはフリードリヒがいた」

戦争の波の中、

変わりゆく人の心に殺されていったユダヤの少年を描いた物語がありました。



国を変える力が国民の心にあるなら、

その心を非戦におくことが、

地球を殺戮から守る術となる。

そう思うのです。



画像はお借りしました。

ありがとうございます。