老将たる店主は、

羽生結弦選手に強く励まされます。

強烈なまでに逃げない男でございますもの。

同時に胸は引き絞られるように痛みますが。



痛むということは、

引き寄せられずにいられないということでございましょう。






人は何から逃げてはいけないか。

課題、試練、単語は幾つも上がりますが、

その最たるものは自分自身と思います。



 誰も知らなくとも、

 自分は知っていること。

 誰に求められたのでもなく

 自分が決めたこと。







よく「それが羽生結弦だ」と、

羽生選手は口にします。

自分自身ではなく、

自分がそうあろうとする姿を明確にさだめていらっしゃる。

それが逃げてはならぬものなのでしょう。


あらためて思います。

世界の注目を一身に浴びながら「羽生結弦」から逃げないという凄みを。




人は弱いものですが、

強くあろうとすることで強くなれます。

それをどこまで証明なさるのか。




決して100パーセント勝利できるわけではない試合があること、

北京五輪を怖いと口にできること、

己に勝つ土台と思います。



人はそれぞれの器にあった、

それぞれの“逃げるな”を背に、

たづたづと道を行くものです。

もちろん店主もその一人であり、

それを重く感じることさえ忘れるほど

視野狭窄になっていたとき、

ニースのロミオを観ました。




そこに光が差す。

そのとき

逃げないことは怖くなくなる。

不思議なものです。



北京五輪。

羽生選手が、

そんなメッセージをもった光を有する勝者となること、

それを信じています。



さて、

本日は節分でございます。

明日は立春というのに、

何とも寒い一日でした。



牟礼慶子さんの「見えない季節」、

ひどく形而上学的な季節”ということばに引き寄せられ、

お借りします。

やがて来る華麗な祝祭のために生きている数かぎりないものは、

もう そこに 春を感じていますもの。

コロナ禍の先へとつながる光を、

きっとわたしは感じるでしょう。





見えない季節  牟礼慶子


できるなら

日々のくらさを 土の中のくらさに

似せてはいけないでしょうか。

地上は今

ひどく形而上学的な季節

花も紅葉もぬぎすてた

風景の枯淡をよしとする思想もありますが

ともあれ くらい土の中では

やがて来る華麗な祝祭のために

数かぎりないものたちが生きているのです

その上人間の知恵は

触れればくずれるチューリップの青い芽を

まだ見えないうちにさえ

春だとも未来だともよぶことができるのです



画像はお借りしました

ありがとうございます